浜松凧
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浜松まつりで引き回される御殿屋台

浜松まつり(はままつまつり)は、浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日?5日にかけて開催される年中行事である。通称は凧。[1]また、凧祭り(たこまつり)とも呼ばれる。[2]


目次

1 概要

2 起源・歴史

3 内容

3.1 凧揚げ合戦

3.2 練り

3.3 御殿屋台


4 特徴

4.1 ラッパ


5 問題点

5.1 肥大化の弊害

5.2 まつりの変容

5.3 非正規参加者の増加

5.4 他地域への波及

5.5 運営主体の問題


6 参加町

6.1 昭和30年以前からの参加町(旧町)

6.2 新参加町


7 現在の開催場所

7.1 交通


8 関連

8.1 関連商品

8.2 関連番組

8.3 関連施設


9 戦後初の開催中止

10 脚注

11 参考文献

12 関連項目

13 外部リンク


概要

毎年、現在は5月3日・4日・5日の3日間で行われる。端午の節句にちなみ、長男初子)の誕生を祝う。近年では次男以降や女児の誕生に対しても行われることが多い。この誕生祝いのことを初祝いと言い、「初」と略される。昼には凧合戦、夜には御殿屋台の引き回しと練りが行われる。「まつり」と名が付いているものの、公式には特定の神社仏閣祭礼ではなく都市まつりとしている。但し、地元の神社での安全祈願の為の参拝や、組長の持つ提灯と御殿屋台に御幣を飾る等の神事は行われる。近年、期間中の人出は年次によって100?150万人程度で推移しており、2016年度は173万人。
起源・歴史

これまでその起源は、室町時代永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であるとする研究が進んでいる。

現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現:浜松市東区有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。

江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく日本全国で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた[3]

明治に入り庶民の娯楽が多様化すると初凧の習俗は「時代遅れなもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、明治7年頃に浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。消防組単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、消防組の影響は参加各町をで表すことや、古くから参加している町の凧印にはを図案化したものがあることからも伺える。

1884年(明治16年)

「浜松駅紙鳶あげの馬鹿騒ぎは毎度記るせしが昨今は実に甚だしく去る廿四五日の頃よりは各町毎に隊伍を組み夫々の屯所には消防に用いる旗を立てて(中略)合図は太鼓喇叭で進退し田面麦畑のきらいなく奔走し、又各町人の見易き為会印に換る手拭を以ってし肴町は晒し、連尺は豆絞り、伝馬連は芥子玉と思ひ思ひに色分けし寺島、稲葉のごときさしもに広き畑中も狭しとする程群集し、恰も戦争に異ならず」--函右日報 明治16年4月28日の記事より

とあり、この記事からも消防組と凧合戦の関係がわかる。また、この記事には「太鼓喇叭で進退し」とあり、既にこの頃からラッパが凧合戦合図の為に使われていたことがわかる。現在でもこのラッパの始まりを、大正初期に和地山練兵場で開催された際に見物していた兵士によって吹かれたことから、と紹介されることがあるが誤りである。

この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地(現在のJR東海浜松工場)などがあったが大正7年からは和地山の練兵場(現在の和地山公園)に一本化されて行われた。第二次世界大戦による一時中断の後、昭和23年には会場を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が、50か町余の参加を得て開催された。昭和25年、東海道本線沼津駅?浜松駅間の電化を記念して正式名称が「浜松まつり」と定められた[4]

戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。和地山の旧練兵場がスポーツ公園として整備されることとなった昭和41年より凧揚げ合戦は中田島での開催が固定され、昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線に拍車がかかることになった。長い間、市内中心部(旧市内)の50町余のみによって行われていたまつりだったが、昭和50年に行政の後押しにより卸本町が途中参加すると、以降毎年のように参加町が増え、わずか30年の間に112町も参加町が増加した。これにより参加者が激増し全国でも屈指の人出数を誇る行事となったが、急激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現状は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。

1970年代の浜松まつり本部結成頃までは5月1日?5日の5日間で、市中練り・市中御殿屋台引き回しは3日?5日の3日間のみ行われていた。また、最初の2日間は町内のみで、当時は殆どの組が3日間とも市中に出ていた。
内容

練りや凧揚げ、糸切り合戦をする際に、掛け声は様々なバリエーションがあるが、主に「オイショ」「ヤイショ」などといったが掛かる。練りではラッパのリズムに合わせられる。

なお、これら行事のための準備作業は4月頭ごろから大々的に行われ、各組の拠点である会所を開く「会所開き」もそれぞれ行われる。これ以外の事務作業や打ち合わせなどは春先の期間に限定されたものではなく、ほぼ通年で行われている。
凧揚げ合戦凧合戦の初日冒頭にて行われる開会式

凧揚げ合戦は、町(自治会)ごとが「組」や「連」というかたちで参加し、それぞれ固有の町紋(凧印)が描かれた大凧を揚げ、組同士で凧糸を切り合って競うものである。凧揚げ合戦は中田島砂丘にある遠州灘海浜公園で行われ、会場は「凧場」と呼ばれている(後述)。 凧印は各町によって異なり、町名の頭文字や町内の伝説に由来する絵柄などがある。

大凧は、主に初節句を迎えた家庭から一面ずつ提供される。この凧には初節供の祝いを迎えた子供の名前と家紋が隅に描かれ、「初凧」(はつだこ)と呼ばれる。近年では少子高齢化をはじめとする時代の変化から長男生誕祝い以外の凧が提供されることもある。これらとは別に、町ごとに各自で凧を持っており[5]、それらは合戦に特化して使用される[6]

浜松まつりで使用する凧の大きさは、2帖から10帖まである。 1帖とは美濃判(9寸×1尺3寸=273mm×393mm)12枚で1.28m2の大きさ。4帖は48枚で2.4m四方、6帖では72枚で2.9m四方。8帖になると96枚貼りでおよそ3.25メートル四方となる。このうち4帖から6帖のものが、最も凧揚げ合戦に適しているといわれている。形は正方形で、骨組みは細かく丈夫に作られ、中心から大きく尾骨が突き出ており、他地方の凧と比べると頑丈で重い。これらの特徴は、凧を揚げることよりも揚がった後の糸切り合戦に重きを置いていることによる。最近では、揚げることのみを目的として軽量化した凧を揚げる組もある。

凧糸は糸切り合戦の際のハンデを無くすため、現在では統一生産となっており浜松まつり会館で購入したもの以外を使用することは出来ない。また凧合戦を有利にするためにガラスを凧糸に吹き付けるなどといった行為も現在では禁止されている。

また、凧場では1つの組が同時に二枚以上の凧を揚げたり、届け出た凧印以外の凧を揚げたりすることは禁じられている。

開催時間は年々徐々に早くなっており、現在は10時 - 15時であるが平成22年までは11時 - 15時だった他、平成7年時点では12時 - 16時であった。[7]また、練兵場にて5日間開催だったころには12時 - 18時など、更に遅い時間で開催されていた。
練り

夜になると、各組単位で初凧を提供した家から凧揚げの労をねぎらって、町の若衆に振る舞い酒が出される。この時、規則正しく整列をして掛け声に合わせて摺り足で練り歩き、また、施主や初子のまわりでもみくちゃになるように荒々しく練りを潰していく。


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