浜松まつり
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浜松まつりで引き回される御殿屋台(た組)

浜松まつり(はままつまつり)は、浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中(現在は5月3日?5日にかけて)に開催される年中行事である[1]。通称は凧[注 1]。また、凧祭り(たこまつり)とも呼ばれる[注 2]。3日間の開催で、毎年約200万人の参加者が訪れる[2]
概要

毎年、現在は5月3日・4日・5日の3日間で行われる[1]。地区により初日前の5月2日に前夜祭が開かれることもある[3]

「初祝い」の祭礼である。初祝いは、端午の節句にちなんで各町内の「おだいさま」(遠州弁でお屋敷を持つ家のことなどを指す)に跡取り(長男)が生まれたことを祝ったことがルーツとなっており、「初」と略される。その後初凧が一般的になると一般家庭の跡取り(長男)誕生時にも初祝いが行われるようになって現在に至る。さらに時代情勢の変化により、近年では長男(初祝いに由来して近年では「初子」と呼ばれる)の誕生のみならず次男以降や女児の誕生に対しても行われることが多い。昼には凧合戦、夜には御殿屋台の引き回しと練りが行われる。「まつり」と名が付いているものの、公式には特定の神社仏閣祭礼ではなく都市まつりである[4]。但し、地元の神社での安全祈願の為の参拝や、組長の持つ提灯と御殿屋台に御幣を飾る等の神事は行われる。かつてはゴールデンウィーク期間に開催される催し物の来場観客動員数日本一になるほどの盛況ぶりだったが近年、博多どんたくに観客動員数記録の座を奪われ、期間中の人出は年次によって100?150万人程度で推移している。2023年度は255万5千人。
沿革
起源

これまでその起源は、室町時代永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連龍)の長男・義広の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であるとする研究が進んでいる。

現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現:浜松市中央区有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。

江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく日本全国で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた[5]

明治に入り庶民の娯楽が多様化すると初凧の習俗は「時代遅れなもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、明治7年頃に浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。消防組単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、消防組の影響は参加各町をで表すことや、古くから参加している町の凧印にはを図案化したものがあることからもうかがえる。

1884年(明治16年)の新聞には次のように記されている。浜松駅紙鳶あげの馬鹿騒ぎは毎度記るせしが昨今は実に甚だしく去る廿四五日の頃よりは各町毎に隊伍を組み夫々の屯所には消防に用いる旗を立てて(中略)合図は太鼓喇叭で進退し田面麦畑のきらいなく奔走し、又各町人の見易き為会印に換る手拭を以ってし肴町は晒し、連尺は豆絞り、伝馬連は芥子玉と思ひ思ひに色分けし寺島、稲葉のごときさしもに広き畑中も狭しとする程群集し、恰も戦争に異ならず。 ?  函右日報、明治16年4月28日

この記事からも消防組と凧合戦の関係がわかる。また、「太鼓喇叭で進退し」とあり、既にこの頃からラッパが凧合戦合図の為に使われていたことがわかる。現在でもこのラッパの始まりを、大正初期に和地山練兵場で開催された際に見物していた兵士によって吹かれたことから、と紹介されることがあるが誤りである。

この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地(現在のJR東海浜松工場)などがあったが大正7年からは和地山の練兵場(現在の和地山公園)に一本化されて行われた。第二次世界大戦による一時中断の後、1948年(昭和23年)には会場を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が、50か町余の参加を得て開催された。
発展

1950年(昭和25年)、東海道本線沼津駅?浜松駅間の電化を記念して正式名称が「浜松まつり」と定められた[6]

戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。和地山の旧練兵場がスポーツ公園として整備されることとなった1966年(昭和41年)より凧揚げ合戦は中田島での開催が固定された。

1970年(昭和45年)に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線に拍車がかかることになった。長い間、市内中心部(旧市内)の50町余のみによって行われていたまつりだったが、1975年(昭和50年)に行政の後押しにより卸本町が途中参加すると、以降毎年のように参加町が増え、わずか30年の間に112町も参加町が増加した。これにより参加者が激増し全国でも屈指の人出数を誇る行事となったが、急激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現状は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。

1970年代の浜松まつり本部結成頃までは5月1日?5日の5日間で、市中練り・市中御殿屋台引き回しは3日?5日の3日間のみ行われていた。また、最初の2日間は町内のみで、当時は殆どの組が3日間とも市中に出ていた。
戦争以外による中止

2011年(平成23年)は、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響を受け、被災地に対する配慮や市民感情を鑑み、戦後初の中止となった[7]。この中止決定がなされるまでは中止するべきといった意見も寄せられていた[8] が、市側が一方的に中止を決め、さらに自主的な凧揚げや屋台引き回しを行うのも自粛を要請したため不満の声が寄せられるようになった。鈴木修スズキ会長兼社長(当時)も、経済的なダメージなどを理由にあげ中止に疑問を呈した[8]

2020年(令和2年)3月23日、新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、浜松まつり組織委員会はこの年の同まつりについて、各町の個別活動も含めて全ての催しを中止することを決定した[9][10][11]。2021年度は昼間の凧合戦のみの開催とし、鳴り物の使用や糸切り合戦を禁止した。また2022年度は御殿屋台引き回しと凧揚げ会場での鳴り物の使用が再開されたが新型コロナウイルスの影響で練りや糸切り合戦などは禁止され、規模を縮小して開催した。2023年度は2019年度以来久々に練りや糸切り合戦は解禁されたが、感染対策のため引き続き飲酒は禁止され終了時刻も通常より早い21時とされた。
内容

練りや凧揚げ、糸切り合戦をする際に、掛け声は様々なバリエーションがあるが、主に「オイショ」「ヤイショ」などといったものが掛かる。


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