浜岡砂丘
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浜岡砂丘
浜岡砂丘の地図

浜岡砂丘(はまおかさきゅう)は、静岡県御前崎市にある砂丘。南遠大砂丘の一部で、御前崎遠州灘県立自然公園
地理浜岡砂丘より遠州灘を望む浜岡砂丘空撮
海岸線に対し斜めに設けられた防風林防砂林の列が見える[1]浜岡砂丘の西、遠州灘に注ぐ天竜川
天竜川河口の地図

2004年平成16年)に榛原郡御前崎町と合併して御前崎市となった小笠郡浜岡町は、1955年昭和30年)に池新田町比木村佐倉村朝比奈村新野村が合併して成立した[2][3]。「浜岡」という町名は、町域部の砂浜部の丘陵とを表すとともに、浜松市静岡市との中間に位置していることに由来するものである[4]。旧・浜岡町の中心部であり、現在も御前崎市役所が置かれている池新田の南部、新野川の河口一帯は砂丘が発達を見せている[2][5]。これが浜岡砂丘であり、南遠大砂丘の中でもとりわけ大きな規模を持つものである[2]

砂丘に堆積しているは、天竜川が上流から運んできた土砂が遠州灘沿岸の潮流と強い西遠州からっ風)に乗って、当地まで運ばれてきたもの[6]戦後になって砂丘の規模が縮小傾向にあるが、これは天竜川上流におけるダム建設が影響していると見られている[7][8]

砂丘の砂は風に飛ばされ、高松山や桜ヶ池といった北部の丘陵にまで達する[2]。古くは砂丘からの砂による被害が多く、風下に位置する集落ではが砂で埋没したことがあった[6]。その対策として取られたのが、人工斜砂丘というものである[6]。当地では、海岸線に対して斜めの方向で砂丘の列が造られている[2][9]。始めに堆砂を立てておき、そこへ砂を堆積させて行く[6]。すると西風は成長した人工斜砂丘によって南へと向きを変え、砂とともにの方へと導かれる[6]。こうした工夫によって飛砂被害の防止と景観の維持とを両立した浜岡砂丘は、静岡県から御前崎遠州灘県立自然公園の指定を受けている[10]

1964年(昭和39年)、映画砂の女』のロケーション撮影が当地で行われた(安部公房による原作小説の舞台は山形県酒田市)ことから、多くの観光客が訪れるようになった[8][10]。その後、砂丘規模の衰えや一帯の遊泳禁止措置などもあって観光客数は減少傾向にあったが、砂丘近くの白砂公園に植えられたカワヅザクラが有名になると、これを見に訪れる花見客が増えているという[10]
歴史御前崎市の茶園

更新世(洪積世)の時代、当地は北部の丘陵を除く大部分が海中に没していた[4]完新世(沖積世)になると天竜川や菊川が運んできた土砂が海岸線に堆積し、砂丘を形成していった[4]。すると丘陵にあったがせき止められ、湿地が作られた[4]桜ヶ池もそのひとつである[4]。現在の池新田のあたりも古くは新野川がせき止められてできた新野池と呼ばれる湖沼であったが、中世から近世の始め頃にかけて干拓され、現在のような平地が形作られた[4]

江戸時代になると砂丘に開発の手が伸ばされる[11]。始めに砂防植林活動を行い、植えた木々の生長を待って開墾[11]。これの繰り返しによって南進して行くという、長い年月を要するものであった[11]農産物としては主にサツマイモ栽培され、大正から昭和にかけて干しいもの生産が農家にとって重要な副業となった[12]1878年明治11年)には丸屋文六が長野県からクワ苗木6万本を持ち込み、池新田や佐倉を中心に養蚕業が発展したが、昭和に入ってからの世界恐慌化学繊維の発達もあって衰退した[13]。当地の河川は流域面積が狭く、灌漑用水として用いるには不十分であったが、大井川総合開発事業の一環で改善がなされ、現在ではミカン温室ビニールハウスでのイチゴメロンの栽培、ブタニワトリといった畜産も盛んである[13]

文化年間には横須賀藩主・西尾忠善安房国から漁師を呼び寄せ、当地に地引き網に用いる漁網の製法を伝えている[11]。遠浅の海岸には暖流に乗ってイワシ群れがやって来るため、地引き網漁が発達した[11]。しかし、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発に伴い、大日本帝国陸軍が佐倉の海岸20キロメートルに渡る区間に遠江射場を設けたことで、地引き網漁は廃止されてしまった[13]。戦後、この射場をアメリカ軍接収しようとしたが、地元住民の活動によって免れたという[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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