浜寺公園
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浜寺公園
Hamadera Park
公園内(2008年9月)
分類総合公園
所在地 日本堺市西区浜寺公園町
大阪府高石市羽衣公園丁
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度32分29.6秒 東経135度26分26.7秒 / 北緯34.541556度 東経135.440750度 / 34.541556; 135.440750座標: 北緯34度32分29.6秒 東経135度26分26.7秒 / 北緯34.541556度 東経135.440750度 / 34.541556; 135.440750
面積75.1ヘクタール
開園1873年12月
設計者本多静六 [1]
運営者大阪府都市整備部
現況年中開放
駐車場あり(509台)
アクセス南海本線浜寺公園駅阪堺線浜寺駅前停留場からすぐ。
阪和線東羽衣駅から約450m。
事務所浜寺公園管理事務所
事務所所在地堺市西区浜寺公園町
公式サイト ⇒http://www.osaka-park.or.jp/rinkai/hamadera/main.html
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浜寺公園(はまでらこうえん)は、大阪府堺市西区および高石市の沿岸部に広がる大阪府営の都市公園。約5,500本の松林で知られる。この界隈は有名な別荘地(「別荘 (#有名な別荘及び別荘地)」参照)。
概要
前史

堺南之橋から紀州街道を南へ約2km、石津川に架かる太陽橋を渡ると沿岸部に松林が広がっていた。古来白砂青松で知られた和泉海岸のなかでも特に名高い高師浜の近傍に現在も残るこの松林は、18世紀初頭の宝永年間に和泉国大鳥郡船尾村・西下村・東下村・山内下村・今在家村の5ヶ村の住民らが、防潮のために植えたものが原型となっている。

これら5ヶ村は1747年延享4年)から田安家領となり、1868年明治元年)に田安家がこの松林を伐採して新田開発を計画。以降二転三転の末、1873年(明治6年)に当地を訪れた大久保利通が、約850本にまで減少してしまった姿を嘆いて県令税所篤に働きかけ、伐採停止が通達された。この時に大久保が詠んだ歌「音に聞く 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」は、『小倉百人一首』にある祐子内親王家紀伊の「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」の本歌取りで、園内に『惜松碑』として歌碑が建てられている。
開園後

1873年(明治6年)12月に日本最古の公立公園として開園する。

1889年(明治22年)4月の町村制施行の際、船尾村と下村は浜寺村大字、今在家村は高石村の大字となった。

1905年(明治38年)、浜寺公園の南に隣接する泉北郡高石村大字高石北および高石南の沿岸部(芦田川 - 王子川間)に、日露戦争におけるロシア俘虜収容所(約43ヘクタール、28000人収容)が建てられた。浜寺公園では軍艦の模型を作って爆破させるショーや、約500人の剣客を招いての古代戦闘合戦が行われたり、夜間もイルミネーションで飾っていた[2]。園内のユースホステル北側にロシア兵の霊を鎮める銅像と小泉純一郎総理大臣ロシアプーチン大統領の書名が入った石碑が建っている。なお、この地で亡くなった捕虜は現在の泉大津市営春日町墓地に埋葬されており、現在も89基の墓石が並ぶ「ロシア兵墓地」として保存されている。

同年には園内の海浜に南海鉄道(南海)が浜寺海水浴場を開設したが、初年の地味な海水浴場は集客に失敗した[3]。そこで南海は大阪毎日新聞社(大毎)社長の本山彦一(南海の取締役でもあった)に海水浴場経営の協力を求め、南海・大毎の提携関係が結ばれた[3]。翌1906年(明治39年)以降、浜寺海水浴場は次第に海浜リゾートという特色を有するようになり、同年には浜寺水練学校も開設された[3]

1908年(明治41年)、園内のテニスコートにおいて大毎主催の関西学生諸学校聯合庭球大会(現・全国高等学校総合体育大会テニス競技大会個人戦)が開催され、1936年昭和11年)の第29回大会まで浜寺公園コートが会場となった。この大会は海水浴場が開設されている夏に開催され、新中間層に人気のスポーツだったテニスとの組み合わせで、海水浴場に新中間層を誘客する狙いがあったとされている[3]

公園周辺の泉北郡浜寺町一帯は大正から昭和初期にかけて別荘地となり、とりわけ夏期の海水浴場は大変な賑わいを見せた。阪堺線の駅前と言うこともあり、旧堺港南側の大浜公園および大浜海水浴場と並んで一大レジャースポットであった。かつて園内には数件の料亭が営まれており、堺市出身の与謝野晶子与謝野鉄幹と親しくなった歌会も行なわれ、現在は晶子の歌碑が存在する。

1909年(明治42年)、満韓旅行からの帰途にあった夏目漱石が園内の料亭を訪問する[4]

1945年(昭和20年)から1958年(昭和33年)までアメリカ軍に接収され、解除後わずか3年で泉北臨海工業地帯の埋立造成が始まった。海水浴場は姿を消したが、浜寺公園の松林の保存などを目的に浜寺水路が建設され、辛うじて往時を偲ぶことができる。

園内は様々な樹木が育てられており、春には桜の花見客で溢れる。大阪みどりの百選に選定されている[5]。また特に有名な松林は、日本の名松100選に選定されており、大規模な松林を守るため、至る所に防火設備が見受けられている。現在では使用されていない1908年(明治41年)に製造されたアメリカ製の消火栓が公園中央を南北に貫くメインストリート沿いに残っている。

園内の指定地域では直火は使用できないが火気の取り扱いが許可されており、バーベキューをしているグループが見受けられる。

繁忙期には園内に売店が開かれ、端午の節句には阪堺線浜寺駅前駅側入場口を中心に多数のこいのぼりが設置される。海水浴場は姿を消したが、1963年(昭和38年)に浜寺公園プールが開設され[6]、夏には海水浴場時代から変わらず毎日新聞社主催の浜寺水練学校が開講される。浜寺水練学校では日本の古式泳法の研究、実践、伝承が行われており、また、日本におけるアーティスティックスイミングの発祥の地でもある。

サッカーJリーグセレッソ大阪の下部組織がユースホステル隣接のグラウンドでサッカースクールを開催している。

2003年および2004年7月31日には、通常大浜公園で毎年行われる堺大魚夜市が一時的に場所を変えて開催された。

2018年9月4日の台風21号により、公園内の松や桜の木に折れる、根こそぎ倒れる等の被害が出た。

また、子供汽車の交通遊園前駅ホーム上屋が全壊したため子供汽車と交通遊園が休業している。(2018年10月7日に営業再開)
沿革

1873年(明治6年)12月 - 公園に指定される。

1932年(昭和7年) - 財団法人富民協会により園内に農業博物館が竣工し開館する。


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