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淺間丸。(1931年撮影)
基本情報
船種貨客船
クラス浅間丸級貨客船
船籍 大日本帝国
所有者日本郵船
運用者 日本郵船
大日本帝国海軍
建造所三菱造船長崎造船所
母港東京港/東京都
姉妹船龍田丸
秩父丸(鎌倉丸)
信号符字JFXC
IMO番号35343(※船舶番号)
建造期間737日
就航期間5,527日
経歴
起工1927年9月10日
進水1928年10月30日
竣工1929年9月15日
除籍1944年11月1日
最後1944年11月1日被雷沈没
要目
総トン数16,947トン
純トン数10,017トン
載貨重量8,218トン
全長178.0m
垂線間長170.68m
型幅21.95m
型深さ12.95m
高さ33.52m(水面からマスト最上端まで)
10.06m(水面から船橋最上端まで)
11.88m(水面から煙突最上端まで)
喫水8.689m
主機関ズルツァー製ディーゼル機関4基
推進器4軸
最大出力19,108BHP
定格出力16,000BHP
最大速力20.713ノット
航海速力18.0ノット
航続距離13ノットで24,000海里
旅客定員一等:239名
二等:96名
三等:504名
乗組員329名
高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)。
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浅間丸(淺間丸、あさままる)は、日本郵船の貨客船。その豪華さから「太平洋の女王」と呼ばれることもあり、姉妹船と共に太平洋戦争前の日本を代表する船だった。有事においては航空母艦に改造する計画だったが、実現しなかった[2][3]。船名由来は浅間大社。 北太平洋で展開されたアメリカ合衆国やカナダとの貨客船による競争の一環として、浅間丸は三菱造船長崎造船所(現:三菱重工業長崎造船所)で建造された2隻の浅間丸級貨客船のうちの1隻である(もう1隻は龍田丸)。また、設計が異なるが秩父丸も姉妹船として扱われた。 当時の欧米の主力船に比べその規模こそ小さかったものの、食堂の内装にはふんだんにイタリア産大理石が使われ、客室内には当時欧米製の最新鋭の艤装品が使われるなど、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}まさに当時の日本の「フラッグシップ」と呼ぶにふさわしいものであった。そのねらいは主な顧客層を欧米人に絞込み、従来のオリエンタリズムの設備やサービス行うのではなく、欧米の客船と同質がそれ以上の水準で、ライバル会社に打ち勝とうとする戦略であった。[要出典] しかし主要な艤装品は欧米製であったため、一部には「日本の造船所で建造した外国船」という評価を付けられてしまった。[要出典] ちなみに日本郵船内の船種分類は「客船」であり、クリスタルハーモニー就航まで浅間丸型が唯一の分類であった。 1927年(昭和2年)9月10日起工[4]。1928年(昭和3年)10月30日進水[4]。1929年(昭和4年)9月15日竣工[4]。 1928年9月16日、「浅間丸」は長崎港から香港へ向け出発[5]。香港から戻った「浅間丸」は10月8日に横浜港に着き、10月11日に最初の太平洋横断航海に出発した[6]。乗客は約570名であった[7]。所要時間は横浜・ホノルル間は7日と16時間34分、ホノルル・サンフランシスコ間は4日と15時間12分で[8]、12月24日にサンフランシスコに到着[9]。それからロサンゼルスへ行き、11月21日に横浜に戻った[10]。 第2次航海では香港からダグラス・フェアバンクスが乗船し、横浜では「天洋丸 1937年9月、「浅間丸」は台風により香港で座礁した。1日、定期検査中であった「浅間丸」は台風接近に伴い九龍半島のジャンク・ベイに避難した[17]。夜、激しい風雨の中、「浅間丸」はイタリア船コンテ・ヴェルデ、次いでイギリス船「タランバ」と衝突[18]。続いて2日4時、「浅間丸」はサイワン・ベイで暗礁に乗り上げた[19]。 「浅間丸」の救助は日本サルヴェージに依頼された[20]。常識的な方法では「浅間丸」は離礁させられず、離礁成功の見込みはほぼないとみられていたが[21]、機関2基などを陸揚げし、海底を掘り下げ、海軍より借用した浮きタンクを使用して1938年3月11日に離礁に成功した[22]。応急修理後、「浅間丸」は長崎へ回航され、4月12日に三菱長崎造船所で入渠[23]。9月15日に「浅間丸」はサンフランシスコ線に復帰した[22]。
船歴
建造
就航
座礁