浅野良三
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浅野 良三
生誕
1889年8月28日
東京都
死没 (1965-02-09) 1965年2月9日(75歳没)
神奈川県川崎市日本鋼管病院
国籍 日本
職業実業家
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浅野 良三(あさの りょうぞう、1889年明治22年)8月28日 - 1965年(昭和40年)2月9日[1])は日本の実業家。浅野財閥創始者浅野総一郎の次男、父の死後に兄の浅野泰治郎が財閥総帥の座についたが、浅野良三が実質的に財閥を運営した[2]。背が高く容姿端麗[3]。英語がペラペラで才気煥発野心満々で経営手腕も優れていた[4][5]
経歴
教育

1889年(明治22年)に浅野財閥創始者浅野総一郎の次男として生まれたが[3]、「天下無敵の乱暴者」で、何度も父から勘当だと怒られた。開成中学(旧制)を卒業して一橋大学を受験したが、苦手な英語の問題が全く解らなくて、自作の都々逸を書いて出したが不合格になった[6]。そこでハーバード大学に留学したが、大学ではHasty Pudding Club, Phoenix, Stylus, the Kalumet Club, the OK Society, the Western Club その他のクラブに入会してとても社交的に過ごした[7]。大学図書館でたまたま出会った小松隆はそれ以後、浅野良三の親友かつ側近となった[8]。1912年(明治45年)にハーバード大学を卒業して、フランクリン・ルーズベルト(後の第32代アメリカ大統領)と同窓(同じ大学の卒業生)になった。
浅野財閥で働く

卒業後、東洋汽船サンフランシスコ支店で下級社員として働いた。若い頃の放蕩は実に痛快の極みで、父親(浅野総一郎)も呆れ果てた程だったが、総一郎は一計を案じて、毎朝五時に財閥の会議を開き、良三が欠席すると雷を落とした。良三は早起きするために仕方なく早寝するようになり、深酒や紅夢から遠ざかって社務に専念するようになった。すると、昔の放蕩を知る人は隔世の感を抱いたという[9][4]。1918年(大正7年)に浅野良三は米国のグレース商会と共同で浅野物産を資本金百万円で設立したが、七百万円の損失を出して、浅野総一郎に大目玉を食らった。その時に橋本梅太郎が浅野物産を引き受けて経営を改善した[10]。同年の末頃に日本鋼管浅野製鉄所に納入したインゴットケース(鋼塊)の品質が悪くて、数回の使用で亀裂ができて使用できなくなったので、日本鋼管社長白石元治郎と浅野製鉄所社長浅野総一郎が、代金四百万円を払え払わぬで大喧嘩になった。浅野製鉄所の副社長だった浅野良三がその交渉に当ったのだが義兄白石元治郎と父浅野総一郎の板挟みになって苦しんだ。最後に渋沢栄一中村是公が仲裁してなんとか治まった[11]

浅野総一郎は、1925年(大正14年)に、東洋汽船の北米・南米定期航路の営業権と、定期航路の船舶八隻および政府委託船一隻を日本郵船に売却して代金として日本郵船株12万5千株を受け取ったが、東洋汽船はその後も長年経営難に喘いでいた。そこで1933年(昭和8年)に、浅野良三はまず東洋証券を設立して代金の日本郵船株を同社に売却して安田銀行借入金を肩代わりさせ、次に東洋海運を設立すると東洋汽船の船舶全部を同社に定期貸舟にして配当を復活させた。こうして責任を果たすと、浅野良三と白石元治郎は同社を辞任して無関係になった[12]。浅野良三は、不況に対応して1934年(昭和9年)上期に浅野造船所の資本金を5000万円から1250万円に大幅に減資したが、鉄鋼需要が回復すると1936年(昭和11年)11月に、既に造船より製鉄が主体になっていたので、浅野造船所を鶴見製鉄造船に改称し、「浅野」をなくして財閥批判をかわし、株式を公開し一般大衆資本を動員して、資本金を二倍の2500万円に増資して全額払込し、1937年(昭和12年)10月には、さらに二倍の5000万円に増資した。また、既存の200トンと350トンの溶鉱炉に加えて、新たに450トンの溶鉱炉を建設し、製板工場を拡張して、鋼板製造能力では日本製鐵を凌ぐ会社にしただけでなく、溶鉱炉から鉄を造りそれを用いて船や機械を造る一貫生産能力がある日本唯一の会社に育てた。それで経営手腕や努力で浅野財閥の代表と言われた[6]<[13][14]。戦時体制強化のため同じ地域の製鉄会社が合併するように政府が要請したので、義理の兄と弟である白石元治郎と浅野良三は、1940年(昭和15年)10月に日本鋼管と鶴見製鉄造船を合併して、日本鋼管を浅野財閥最大の鉄鋼会社にすると、白石元治郎が社長に浅野良三は副社長に就任した[15][16]。1942年(昭和17年)6月25日に、白石元治郎が会長に浅野良三が社長に就任した[17]
浅野財閥の再建

第一次世界大戦の好景気大戦ブームの後、1920年(大正9年)に反動恐慌、1923年(大正12年)に震災恐慌、1927年(昭和2年)に金融恐慌、1930年(昭和5年)に昭和恐慌が次々に発生して日本経済は急速に悪化していったが、それに伴って浅野財閥傘下企業の経営状態もどんどん悪化していった[18]。1930年(昭和5年)11月9日に没した浅野総一郎は莫大な借金を残した。浅野財閥本社は払込資本金の1.8倍の借金を抱えていた。そこで浅野良三、浅野泰治郎浅野八郎浅野義夫白石元治郎鈴木紋次郎金子喜代太、穂積重威、馬杉秀、清水幸一郎(圭一郎)ら一族が一致団結し、安田財閥の支援を受けながら、満州事変以後の景気回復に助けられて、なんとか浅野財閥を再建した[19]。具体的には、南武鉄道五日市鉄道を合併させ[20]浅野セメントに日本セメントと土佐セメントを吸収合併させて、磐城炭鉱には第二磐城炭鉱を吸収合併させて、国策に従って発電設備を日本発送電に売却した後で関東水力電気浅野カーリットと関水興業を一つにまとめて関東電気興業にした[21]。神奈川コークスを東京瓦斯に売却し利益を得た。また、発電所が完成すると庄川水力電気の持株を日本電力に売却して利益を得た。さらに大日本鉱業の持株を住友合資会社に売却して整理し、富士製鋼を日本製鐵結成に参加させて処分し、大島製鋼所を日曹製鋼に売却し、武蔵野鉄道を整理した。経営難が続く東洋汽船に関しては、1933年に東洋証券を設立して安田銀行の借入金を肩代わりさせ、さらに東洋海運を設立して東洋汽船持船全部を定期貸船にして、復配に成功した[21]。朝鮮鉄山を十分の一に減資して繰越損失を埋め、さらに、鉄鉱区を浅野造船所に売却した。石油精製業の内外石油は採算が合わないので開業前に事業を中止した[22]。小倉製鋼の4万株を売却し、さらに関東水力電気の4万株も売却して、その利益を安田財閥安田銀行日本昼夜銀行からの借金返済に当てた。浅野造船所は減資して繰越損金を一掃した[23]


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