この項目では、詩人、文芸評論家について説明しています。その他の用法については「浅野晃 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990年1月29日)は、日本の詩人・国文学者。立正大学文学部教授を経て、立正大学名誉教授。滋賀県大津市出身。 広島市中心部にあった偕行社の済美小学校(原爆で廃校)、東京本村小、南山小、青山師範付属小卒業。1914年、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)入学。同級生に蔵原惟人、飯島正、富永太郎、河上徹太郎、足利惇氏、杉本栄一、森永太平らがいた。一年上に五島茂、池谷信三郎、一年下に小林秀雄、正岡忠三郎など。1919年9月、第三高等学校文丙入学。同級生には文丙の飯島正、島田叡、北川冬彦ら、文乙の大宅壮一、中谷孝雄、山口誓子、理科の梶井基次郎、岡潔らがいた[1]。 在学中大宅壮一らと第7次『新思潮』を創刊[2]、1923年には新人会に入る。東大経済学部大学院を退学し、野坂参三の産業労働調査所所員。1926年に日本共産党に入党、福本イズムの信奉者となった。1927年秋、社会運動家伊藤千代子と結婚。1928年の三・一五事件で検挙されるが、同じく検挙されていた水野成夫が「日本共産党脱党に際して党員諸君へ」と題した声明を発表して転向すると、浅野も同調して転向するに至った[3][4]。1930年6月、水野らによる「日本共産党労働者派」(いわゆる解党派)の結成に参加したがほどなくしてこの運動は消滅する。 その後はショーペンハウアー『意志と現識としての世界』(姉崎正治訳)を読んでマルクス主義と訣別し、岡倉天心の英文著書『東洋の理想』を読んで「日本回帰」を果たし翻訳も行った。以後、国粋主義の立場から詩や評論を書き、皇道文学の確立を主張した。大東塾出版部顧問、また同塾系列の新国学協会同人。なお度々誤解されるが、日本浪曼派の同人だったことは一度もない[5]。 1955年、立正大学文学部教授となり、1976年の定年まで勤める。1964年には詩集『寒色』で第十五回読売文学賞を受賞。 1990年、心不全で逝去。 三島由紀夫は1967年に、浅野が大東亜戦争(太平洋戦争)海戦戦没者を弔った詩集『天と海』1965年に惚れ込み自ら朗読し、レコード録音を行っている。1970年11月25日の三島の自決に際しては、追悼回想と詩「哭三島由紀夫」を捧げている。
来歴
人物
著書
『帝国主義論の武器を如何に把握すべきか』叢文閣 1927
『マルクス的方法の形成 「哲学の貧困」に於ける問題の提起と問題の解決』叢文閣 1927
『詩歌と民族』平凡社 1936
『時代と運命』白水社、1938
『青墓の処女』作品社 作品文庫 1938
『文化日本論』作品社 作品文庫 1938
『岡倉天心論攷』思潮社 1939
『読書と回想』赤塚書房
『悲劇と伝統 評論集』人文書院 1939
『秀衡の女 他二篇』赤塚書房 1939
『楠木正成』ぐろりあ・そさえて
『歴史の精神』黄河書院