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凡例浅野 吉長
時代江戸時代中期
生誕天和元年7月1日(1681年8月14日)
死没宝暦2年1月13日(1752年2月27日)
墓所広島市西区山手町の新庄山墓地
官位従四位下安芸守、左少将
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重
藩安芸広島藩主
氏族浅野氏
父母父:浅野綱長、母:馨香院
兄弟吉長、長賢、中川久慶、梅、九条師孝室、一条兼香正室、松平資訓継室、於三、水野忠幹正室ら
妻正室:前田綱紀の次女・節姫
子宗恒、蝶姫、英姫、松平定輝正室
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浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸国広島藩の第5代藩主。浅野家20代当主。 天和元年(1681年)7月1日、第4代藩主・浅野綱長の長男として江戸で生まれる。元禄元年(1688年)6月18日、将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄8年12月4日(1696年)、従四位下・備後守に任官し、元服に際して将軍徳川綱吉、父・綱長双方より偏諱を受け、吉長と改名する。宝永5年(1708年)3月26日、家督を継ぐ。同年11月1日、安芸守に改める。同年12月18日、侍従に任官する。 享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。享保15年(1730年)、弟の浅野長賢に対して広島新田藩3万石を分知する。享保17年12月22日(1733年)、左少将に任官する。元文4年(1739年)、宮島の大鳥居を再建している。 湯治場「湯の山温泉」は吉長公ゆかりの温泉として知られ、寛延3年(1750年)に神殿・拝殿・旧湯治場を再建・竣工した。 宝暦2年(1752年)に広島で死去した。享年72。跡を長男の宗恒が継いだ。 正徳2年(1712年)11月、林信篤から仙台藩伊達家との和解を説得される。同時に稲葉正往も伊達吉村に浅野家との和解を説得した。先祖の浅野長政は、伊達政宗から絶交の通告を受けており、それ以来浅野家と伊達家は絶交状態になっていた[1]。 正徳3年1月、再び林信篤から伊達家との和解を説得される。稲葉正往・林信篤は、浅野家と伊達家の不和は江戸城内で見苦しいこと、他家でも和解の事例はあることなどを指摘し、説得を試みたのである。当初、吉長は先祖に対する不孝であるとして和解を渋っていたものの、親戚であった前田綱紀、徳川吉通らの説得もあり、和解に応じる姿勢に転じた。しかし、伊達家側は国元の重臣の反対を抑えられず、和解は実現しなかった。なお、両家の和解が実現したのは、実に約280年後の平成6年(1994年)のことである。
生涯
伊達家との確執
藩政
藩政改革で成功を収めたことから、「江戸七賢人」の一人に数えられ、広島藩中興の英主・名君といわれる。
先代・綱長の時代にも財政難で藩札(銀札)を発行していたが、享保15年(1730年)、吉長は藩内の金銀貨通用を停止し、藩札使用が強制された。
人物・逸話
正室の節姫は、加賀藩主・前田吉徳の姉で、吉長よりも年長者(いわゆる姉さん女房)で気も強かった。しかも、嫡男の宗恒が彼女との間に生まれていたため、吉長は側室を持つことも許されず、意見もできなかった。しかし、吉長も40歳を過ぎると次第に若い女性を望むようになり、あるときにお忍びで吉原に行って、気に入った遊女2人を愛妾にしようとした。これを知った節姫は、吉長への抗議のために切腹して諫めたという。吉長はこれに驚いて愛妾2人を遠ざけ、節姫を厚く弔い、吉徳と相談の上で幕府に対しては節姫は急病死と届け出て改易・減封を免れたという。
浅野吉長は、豊臣秀吉正妻(北政所)高台院の妹である長生院の子孫であり、また祖母(九条道房女)を通じて秀吉の姉日秀尼の子孫である。つまり、秀吉と高台院の傍系の血統である。また吉長は、徳川家康と前田利家の血統も受け継いでいる(母の貴姫が尾張藩2代藩主徳川光友の娘、曾祖母の満姫が前田利常の娘で前田利家の孫かつ徳川秀忠の外孫、曽祖父浅野光晟が徳川家康の外孫)。特に家康の血は3つの流れを受け継いでいる。
系譜
父:浅野綱長(1659-1708)
母:馨香院(1666-1683) - 貴姫(あてひめ)、徳川綱誠の養女、徳川光友の三女
正室:節姫(1680-1730) - 前田綱紀の次女
長男:浅野宗恒(1717-1777)
女子:蝶姫 - 前田綱紀の養女、酒井忠寄正室
女子:英姫 - 松平正甫正室、のち相馬徳胤継室
女子:松平定輝正室 - のち阿部正直正室
脚注^ 元禄赤穂事件も、宗家が絶縁状態の赤穂浅野家と吉田伊達家が同役でなければ、あるいは回避できた可能性も指摘されている(三田村鳶魚の『横から見た赤穂義士』など)。伊達家からも高家・上杉家(上条上杉家)に養子が入るなど、吉良・上杉・伊達の関係は保たれている。
関連項目
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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