浅野中学校・高等学校
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浅野中学校・高等学校

過去の名称浅野綜合中学校
浅野学園中学校・高等学校
国公私立の別私立学校
設置者学校法人浅野学園
校訓愛と和
九転十起
設立年月日1920年1月20日
創立者浅野總一郎
共学・別学男子校
中高一貫教育完全一貫制
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
高校コード14511E
所在地〒221-0012
神奈川県横浜市神奈川区子安台一丁目3番1号
北緯35度29分27.7秒 東経139度39分31.9秒 / 北緯35.491028度 東経139.658861度 / 35.491028; 139.658861座標: 北緯35度29分27.7秒 東経139度39分31.9秒 / 北緯35.491028度 東経139.658861度 / 35.491028; 139.658861
外部リンク ⇒公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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浅野中学校・高等学校(あさのちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県横浜市神奈川区子安台一丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校高等学校

高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校[1]目次

1 概要

2 立地

3 校風

4 教育方針

4.1 概要

4.2 校訓

4.3 スローガン

4.4 校章


5 カリキュラム

6 クラブ活動

7 生徒会活動

7.1 組織

7.2 役員と選挙

7.3 活動の特色


8 施設

8.1 校内

8.2 銅像山と浅野翁像


9 その他

10 沿革

11 校歌

12 交通

13 著名な出身者

14 関連項目

15 脚注および参照

16 外部リンク

概要 「綜合中学の実現」初代校長水崎基一の署名入り

浅野財閥の創始者・実業家浅野總一郎明治期に欧米を視察し、フォード・モーター等米国の有力企業で人材教育が重視されていることを受け、当時の日本の教育が教養主義に偏っているのを憂い、1920年大正9年)淺野綜合中學校を設立。施設利用の効率化による勤労主義、実学教育、広い視野の獲得を主としたゲーリーシステムを導入し、学校内に実習工場を設置、幅広い知識と実践的指導力を身に付けさせる科学技術教育と実用的な語学教育を特色としていた。旧校名である浅野総合中学校の「綜合」には、教養主義に陥らない幅広い知識と実践的指導力を身に付けさせるという意味が込められている。

実学主義に基づく幅広いバランスの取れた教育を行うという新しい理念をもって創立された学校である。教養と高度な職業能力を併せ持ち、リーダーシップを発揮しうる人材を浅野セメント(日本セメントを経て、現在の太平洋セメント)や日本鋼管(今のJFEホールディングス)などの浅野財閥各社をはじめとする企業へ供給するということを意図していた。

戦後学制改革に伴い旧制中学を改組し中高一貫体制を確立、進学校を志向する。1980年代頃より、東京大学や国公立大学医学部などの難関大学[2]への進学実績を伸ばしている。神奈川男子私立御三家の一つに数えられている[3]
立地

京浜工業地帯横浜ベイブリッジを眼下に見渡す高台に位置し、曇天でもよく見える。晴れた日には遠くに富士山を望むこともできる。58,655m2の広大な敷地を有し、そのほぼ半分は浅野総一郎翁像がある「銅像山」と呼ばれる自然林に占められ、豊かな緑で包まれている。校地の東側に隣接する「子安台公園」は、戦前まで校地の一部であったが、戦時中に陸軍に高射砲陣地として接収され、返還されることなく公有地となったものである。
校風

旧制中学時代からの質実剛健・バンカラ気質であるといわれている[誰によって?][4]

神奈川県内の私立中学・高校にあって、戦後生まれのミッションスクールである栄光学園聖光学院サレジオ学院や、大規模新興校である桐蔭学園桐光学園、仏教系の鎌倉学園、大学まで一貫の慶應義塾各校とは異なった校風であり、私学ではあるが県立高校に似た雰囲気を持っていると言われている[誰によって?][4]

制服は古くから中高ともに黒の詰襟[5]、かつては制帽もあった[要出典][6]。通学の際には指定のカバンまたはリュックサックを携帯することを義務付けられている。

進学校として生徒の自主学習を促すためアルバイトは禁止されている。
教育方針


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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