浅野セメント
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浅野セメント深川工場の跡地にある浅野総一郎の銅像

浅野セメント(あさのセメント)は、かつて存在した日本のセメント会社。

官営模範工場の払下げにより、浅野総一郎が創業した会社である。

品質でも生産量でも他社を凌駕し、1919年(大正8年)には日本のセメント生産高の半分を占めた[1][2][3]

歴史でも規模でも投資額でも浅野財閥の中心であり、北は北海道から南は台湾まで日本全国に多数の工場を持ち、未採掘の主な石灰石山のほとんど全てを所有していた[1]。浅野財閥の基礎になった会社だった[4][5]。第二次大戦後に財閥解体により、日本セメントに改称した。
官営深川セメント工場の払下浅野総一郎

浅野総一郎は東京の官営深川セメント製造所コークスを納入していたが、その工場が民間に払下げられると聞いて、自らが払下げを受けようと決心した。資金が足りないので、朝日又吉を誘ったが逃げられてしまい、渋沢栄一に援助を求めた[6]。当時、セメントの用途はレンガ積・石積の接合材(モルタル)の材料だけだった[7]。それで渋沢は、セメントは見込みがない業種だから紡績をやったほうがいいと述べて反対した。しかし、第一に、火事で全財産を失った経験から、第二に、東京では火事が頻発し名物になっていたことから、浅野は不燃建築の重要性を痛感していたので、セメント業の将来性を信じて、熱心に懇願した。それで渋沢が役所に掛け合ってくれた[8][6]。三井は倉庫にするために、三菱は別荘にするために払下げを希望したが、セメント工場を維持しようとした浅野に決まった[9][10]。渋沢と役所はセメント工場がうまくいくか心配して、まず浅野に貸下て、うまく行ったら払下げることにした。1883年(明治16年)に貸与料を純益の五割にして浅野に貸下げられ、1884年(明治17年)に61,741円で払下げられた[6][11]。浅野は朝6時から職工と一緒に働いた。また積立金制度(社内預金)を設けて郵便貯金の6朱より多い7朱の利子をつけて労働意欲を向上させた[6]。これは浅野総一郎が発明した制度で、官庁や他社が調査に来た[12]
浅野工場(匿名組合)
生産量と品質で日本一

払下げによって、浅野総一郎の三万円と渋沢栄一大川平三郎名義で第一銀行から借りた一万五千円を合わせた、四万五千円を資本金とする浅野工場が設立された[13][11]。浅野が営業部門を担当し、大川が技術部門を担当した[13]。既にこの時点で浅野工場の生産高は国内で第一位で、第二位の会社(後の小野田セメント)をはるかに凌いでいた[14]。最初は官営工場時代と同じように消石灰を購入してセメントを製造していたが、消石灰の品質に問題があったため、石灰窯を新設して、工場で石灰石から消石灰を製造して品質向上とコスト削減に努めた[15]。1889年(明治22年)に始まった横浜築港工事で、設計と監督を担当した英国人パルマー(Henry S. Palmer)は、セメントのサンプルを試験して、浅野・愛知・大坂の三社からセメントを購入した。ところが大阪セメントは期限より半年遅れて、契約した数量の納入をようやく完了した。それでパルマーは、以後は浅野のセメントだけを購入するように日本政府に進言した。その後の1892年(明治25年)10月には浅野・愛知・小野田の指名競争入札になったが、品質(セメント試験塊の抗張力)も考慮した結果、入札価格は一番高いが品質が一番優れていた浅野が独占受注することになった[16][17]。このように横浜築港工事で浅野工場が高品質なセメントを大量に確実に納入するという実績をあげたので、それ以降は、1897年(明治30年)の小樽や、函館室蘭留萌釧路稚内船川などの築港工事で浅野セメントが用いられた[16][18]。小樽築港工事の最中に経済状況の変化でセメント価格が1.5倍に高騰したが、浅野は一割値上げしただけで所定量を納入して、北海道庁に称賛された。最終的に、浅野は小樽築港工事のセメントの八割を納入した[19]。築港工事は堤防などをコンクリートで造るので、大量のセメントを消費するため、浅野の大口納入先になった[20]
石灰石の調達先

浅野総一郎はセメントの原料である石灰石を大量に安定的に供給するために、1890年(明治23年)4月には、栃木県葛生に直営採掘場を開設し、石灰石を安蘇馬車鉄道で採掘場から越名河岸まで輸送し、後は川船秋山川渡良瀬川利根川江戸川小名木川を経て深川の工場に運ぶようになった[21]。だが、安蘇馬車鉄道は必要量の石灰石を輸送するには能力不足だった。そのうえ1890年(明治23年)と1892年(明治25年)には、出水で駅が水没して運休した。それで、浅野総一郎葛生からの石灰石調達に見切りをつけて、青梅地方の日向和田村から青梅鉄道甲武鉄道によって石灰石を調達することにして、青梅鉄道の発起人・大株主となった。1895年(明治28年)12月に日向和田村に線路が到達すると、石灰石の主な調達先を青梅地方に変更した[22]
門司工場を新設

セメントは劣化するのが早く、価格に占める輸送費の割合が大きいため、品質でも価格でも長距離輸送に向かないので、1893年(明治26年)に門司工場を新設して西日本の拠点にした[13]。その門司工場は1900年(明治33年)から、大阪築港工事に小野田セメントと同量のセメントを納入してから、建築科・佐世保建築科・基隆築港・打狗築港・大蔵省神戸建築部などに納入して西日本でのシェアを獲得した。海軍は品質を重視したので、浅野のセメントしか用いなかった。三井物産小野田セメントを売り込もうとしたが、セメントの品質試験結果の書類を見せられて、断念するしかなかった[23]
浅野セメント合資会社
合資会社に改組

1898年(明治31年)2月に、それまでの資本金を、浅野総一郎335,000円、大川平三郎110,000円、尾高幸五郎55,000円としたうえで、渋沢栄一が20万円、安田善次郎が10万年を新たに出資して、浅野工場を公称資本金80万円の浅野セメント合資会社に改組した[24][16]。1901年(明治34年)に、払込資本金が80万円になり、1907年(明治40年)に、150%の特別配当によって、払込資本金が200万円になった。


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