浅野ゆう子
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小説家・エッセイスト・元作詞家の「浅野裕子」とは別人です。

あさの ゆうこ
浅野 ゆう子
本名赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)
生年月日 (1960-07-09) 1960年7月9日(63歳)
出生地 日本兵庫県神戸市東灘区[1]
身長167 cm
血液型AB型
職業女優
活動期間1974年 -
配偶者実業家男性(2017年 - )
事務所Eaupure
公式サイト公式プロフィール
主な作品
テレビドラマ
君の瞳をタイホする![1]
抱きしめたい![1]
五稜郭
ハートに火をつけて!
都合のいい女[1]
長男の嫁
義務と演技
てるてる家族
大奥
女刑事みずき?京都洛西署物語?
功名が辻』映画
獄門島

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演女優賞
第19回
その他の賞
#受賞参照

備考
体重50 kg
スリーサイズはB81,W55,H87(1980年)
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浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名:赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年昭和35年〉7月9日[1][2][3] - )は、日本女優、元歌手。所属事務所はEaupure(オーピュア)。かつては研音アベベネクスト(アァベェベェ)に所属していた。
人物

兵庫県神戸市東灘区出身[2][3][4]堀越中学校?堀越高等学校東京都中野区)卒業(1979年)[5]。身長167 cm、体重50 kg。B83 cm、W58 cm、H88 cm[6][注釈 1]

趣味は読書。
略歴
生い立ち

本名の裕子の「裕」の字は、石原裕次郎に由来[4][9]。裕次郎のファンだった母によって名付けられた[4][10]。父親は母親の妊娠を知ると「子どもはいらない」と母の腹を蹴り[9]、裕子が生まれた直後に新しい女性を連れて産婦人科に離婚話を持って来た[4][9]。父は母の銀行退職金を持って逃げ[9]、3歳の時に両親が離婚。親戚の家を母と共に転々とし[4][9]、母は裕子を連れて自殺しようと何度も森に入ったという[9]。幼いころから芸能志望で、母親も娘を芸能人にするべく小学生のころから歯を矯正したり、足が綺麗に伸びるように正座を禁止していた[11]。幼少時代から大人びており、小学4年生の時で既にナンパされるほど[11]。神戸青い鳥幼稚園から神戸市立本山第三小学校へ進み[4]、小学校6年生の秋、母や友人と神戸さんちかサテライトスタジオであったラジオ公録『スターへの登竜門』を見た帰り[4][9]研音の関係者から「歌は好きですか? 歌手になってみませんか」とスカウトされる[4][9]。小さいころから歌手に憧れていたため、母を懸命に説得し、一年間レッスンを受けた後、母を神戸に残し単身上京した[4]。12歳の時にCMオーディションで入賞したことをきっかけにスカウトされた[11]

世田谷区立梅が丘中学に京王線代田橋駅付近の寮から通学していた。カチューシャを愛用し、大人びたスタイルは校内でも人気だったが、非常に厳しい校長に注意のために呼び出されたことがある。TBS系列で放送されていた『歌う新人王決定戦』で優勝したことが、デビューのきっかけとなる。

芸名は「本名の赤沢のア行を取って、呼びやすい浅野とひらがなのゆう子をくっつけた」等の記述も見られるが[5]桂三枝と対談した1976年の雑誌で「レコード会社から1日で考えてくれと言われたんで、自分でパッと電話帳をめくり、ゴロがいいから浅野ゆう子にした」と話している[9]。人に聞かれたときは、浅野内匠頭にあやかったと言うこともあったという[9]
デビュー

13歳のとき、アイドル歌手としてデビュー(当時、研音/RCAレコード所属)し[5]、「ジャンプするカモシカ」のキャッチフレーズで活動した。「恋はダン・ダン」で、1974年第16回日本レコード大賞新人賞受賞[2][3]1976年には、8枚目のシングル「セクシー・バス・ストップ」がヒットを記録する。

小学校4年のとき、身長が一年間で10cm伸び[12]、14歳の時に身長が身長166.5cmになり[12]、中三のとき、自分より大きい男の子がクラスで3人[12]。当時はクラスの男の子から「ノッポ」「電信柱」などとからかわれた[12]

当時の女性アイドルは小柄であることが好ましいとされており、浅野のような長身で日本人離れしたプロポーションのアイドルは珍しかった。また、ミニスカートホットパンツなどでスタイルを強調していた浅野は女性からの反撥を受けたこともあり、アイドル歌手としては大成しなかった[1]。一方、ルックスが大人びていた浅野は、中学生ながらテレビドラマ『太陽にほえろ!』に警察署・捜査第一係の2代目内勤員(お茶くみ)役として出演した[1][3]。映画『恋の空中ぶらんこ』以降、東宝の映画作品にも立て続けに出演したが[2][3]、役に恵まれず一時出演が途絶える[3]
モデルから本格的に女優へ

当時の女性アイドルで水着にならない者はほとんどいないため[9]、多少水着の仕事もあったが[9]1979年昭和54年)夏のカネボウ化粧品テレビCM「一気にこの夏チャンピオン」で披露した大胆な水着姿は世間を驚かせた[7][8][9]プロポーションは当時から芸能界随一と噂されたが[8]、面積極少の三角巾風のブラパンティは、際どいところを辛うじて隠す大胆なもので[8]、当時は東京都内国鉄私鉄地下鉄の構内にポスターがよく貼られたが[8]、朝貼ると夕方までに全部盗まれて、マスメディアにも大きく取り上げられた[8]。前任者の服部まこメッシュの水着もセクシーではあったが[7]、浅野はそれまでカワイ子ちゃん歌手のイメージがあったため[5][7]、極少水着のインパクトが大きかった[8]。勿論、浅野の起用はカネボウのイメージ戦略によるものである[5]。抜群のプロポーションで『週刊プレイボーイ』『平凡パンチ』『GORO』をはじめ、あらゆる雑誌のグラビアを席巻。またお茶の間を対象にしたテレビCMでは、セクシーな表現はそれまでタブーとされたが[13]1981年から放映されたオーシャンウイスキー(メルシャン)のテレビCMは世の男性の目を楽しませ[6]、テレビCMでの大衆の許容度が拡がる切っ掛けとなった[13]

歌を実質休業状態になった1980年代からは、様々な会社の水着キャンペーンモデルなど企業広告で活躍した。この頃、テレビの仕事は2時間ドラマが年2本程度だった。

しかし1988年昭和63年)にフジテレビ連続ドラマ君の瞳をタイホする!』のヒロイン・シングルマザー役に抜擢され、さらにドラマ『抱きしめたい!』で『W浅野』と呼ばれた浅野温子との競演で、女性からの圧倒的な支持を受けた。これ以降は「トレンディドラマの女王」と称される程にブレイクし、1990年代初頭には、W浅野を意識した服装が大いに流行した。
人間関係など

憧れの女優は、野際陽子である。また、野際も浅野を評価しており、自身が多くのドラマで幾度となく演じた姑役について、「私の後(の姑役)は、浅野ゆう子さんにでもお願いしようかしらね。」と、浅野を後継者にしたいと語っている。

俳優として駆け出しで、なかなか仕事に恵まれなかった頃の唐沢寿明に「爽やかな路線でいってみてはどうか?」とアドバイスをした結果、後のブレイクに繋がったとして「(浅野は)私の恩人」と著書で評されている。

2014年11月2日早朝に自宅で当時交際中だった俳優の田宮五郎クモ膜下出血で倒れ、浅野に看取られ11月6日未明に死去した[1]


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