浅見緑蔵
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 浅見 緑蔵 Rokuzo ASAMI
基本情報
名前浅見 緑蔵
生年月日 (1908-08-20)
1908年8月20日
没年月日 (1984-06-19) 1984年6月19日(75歳没)
身長174 cm (5 ft 9 in)
出身地東京都
経歴
成績
優勝回数レギュラー:6勝
初優勝日本オープン1928年
日本プロゴルフ殿堂 殿堂表彰者
選出年2012年
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浅見 緑蔵(あさみ ろくぞう、1908年8月20日 - 1984年6月19日)は、東京都出身のプロゴルファー
来歴

生家近くにあった東京ゴルフ倶楽部駒沢コースキャディをしながらゴルフを覚え[1]、キャディマスターをしていた安田幸吉の弟子となる[2]程ヶ谷カントリー倶楽部が発足すると移籍し、アメリカ留学から帰った赤星六郎の指導を受けて同倶楽部最初の所属プロとなった[3]

1927年の第1回日本オープンではアマチュアの赤星に及ばず2位であったが、大健闘で一躍浅見の名を轟かせた[2]1928年の第2回では19歳9ヶ月の若さで初優勝、同年11月日本プロでは20歳3ヶ月で師匠の安田と関西の宮本留吉を抑えて[2]優勝[1]。両大会の最年少優勝記録は現在も浅見が保持している[1]。2年間の兵役から復帰した1931年には日本オープン、日本プロ、関東プロと当時の公式競技をすべて制して実力を見せつけた[1]。日本オープンは2位の宮本に4打差の281ストロークで優勝し、日本プロでは陳清水( 中華民国)を5-3という大差で優勝する活躍ぶりを見せた[2]。身長174cmと当時のプロ界では抜群の長身で、その弾力ある身体から繰り出すショットは、天才的と言われた。浅見の天才的なゴルフと恵まれた体格が、アメリカでも通用するのではないかという期待感から、日本ゴルフ協会が派遣を決めたと言われている[2]。宮本、安田、アマチュアの佐藤儀一と共に西海岸を転戦するウインターサーキットに参戦し、12月のサンフランシスコマッチプレー選手権から1月のアガ・クリヤンテオープンまで6戦に出場[4]。サンフランシスコマッチプレーでベスト16、パサディナ・オープンとサンタモニカ・オープンでは決勝ラウンド進出も果たす[4]。派遣費用は程ヶ谷CCが負担し、東海丸で13日間の船旅は船酔いに苦しんだが、到着したアメリカはお祭り騒ぎであった[4]。「日本からプロがやってきたぞ」とカリフォルニア州プロゴルフ会長、トッププロが出迎え、その足で市庁舎に向かい市長と会見[4]新聞も連日書き立て、浅見がボビー・ジョーンズを崇拝していると知ると、「ボブ浅見」の愛称が早速ついた[4]1939年にはフィリピンオープンでノーマン・フォン・ニダ( オーストラリア)の2位[5]1940年の同大会ではジャグ・マックスペイドン( アメリカ合衆国)、エメリー・ジンメルマン(アメリカ)、宮本、戸田藤一郎に次ぐ4位に入る[6]

戦後の1957年には日本プロゴルフ協会設立に尽力し、1963年からは同協会の第2代理事長(現在の会長職)を務めてプロゴルフ界の発展に寄与[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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