浅見安之丞
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 凡例浅見安之丞
時代江戸時代末期(幕末
生誕天保4年10月15日1833年11月26日
死没元治2年1月14日1865年2月9日
改名浅見虔之輔→浅見正虔
別名:伯恭、:烟渓
墓所興元寺(山口県周南市一ノ井手)
官位贈従四位
主君毛利元蕃
周防徳山藩
氏族浅見氏
父母父:浅見栄三郎、母:常(浅見正保の娘)
兄弟安之丞、児玉次郎彦述造
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浅見 安之丞(あさみ やすのじょう)は、幕末武士徳山藩士。徳山七士の一人。は正虔、字は伯恭、号は烟渓。浅見栄三郎の長男で、弟は同じく徳山七士の一人である児玉次郎彦
生涯

天保4年(1833年10月15日徳山藩士・浅見栄三郎の長男として生まれる。読書文芸に長じ、槍術に巧みであった。

安政元年(1854年)、藩校・興譲館の句読師に挙げられ、大島流槍術の指南役を兼ねた。万延元年(1860年)に小姓役となり、文久 元年(1861年)には徳山藩主・毛利元蕃に従って江戸に赴き、翌文久2年(1862年)に京に上った。

文久3年(1863年)3月、信田作太夫と共に御親兵に選ばれて堺町御門の警衛に当たり、4月の石清水八幡宮行幸の日には攘夷派の公家・三条西季知の警護に当たった。同年8月18日八月十八日の政変が起こると急いで帰国してこれを報じた。その後、世子・毛利元功の学業指導を命ぜられた。

元治元年(1864年)7月、藩校・興譲館の訓導役に転じたが、同年7月19日禁門の変の後に徳山藩内で対幕恭順派が政権を握り、同年8月11日本城清信田作太夫と共に捕らえられ、8月17日に浜崎の獄に繋がれた。

元治2年(1865年1月11日、藩吏は安之丞、本城清、信田作太夫の3人を毒殺せんと図ったが失敗したため、1月14日、「死一等を減じ流罪に処す」として本城清、信田作太夫と共に新宮の浜[1]に連れ出され、絞殺された。享年33。藩吏は3人の遺体を砂中へ埋めてその死を隠し、獄中における病死として徳山藩主・毛利元蕃や萩藩に報告した。遺族は安之丞の遺体を請うて一ノ井手の興元寺へ葬り、浅見家の家督は弟の述造が継いだ。

明治21年(1888年)に徳山毛利家当主・毛利元功のたっての願いで徳山七士全員は明治天皇の命により、例外的に靖国神社に合祀された。明治31年(1898年)には徳山七士全員に従四位が贈られた。また、周南市児玉神社には七士の顕彰碑[2]と贈従四位の碑が建っている。
脚注^ 現在の出光興産徳山製油所付近。
^ 七士の顕彰碑は、初めは遠石地区に建てられた。

参考文献

家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第六巻』(
新人物往来社1989年)207-208頁


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