浅草花やしき
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浅草花やしき

浅草花やしき(2011年11月27日)
施設情報
愛称花やしき
前身植物園「花屋敷」
事業主体株式会社花やしき
面積1860坪
開園1853年
所在地111-0032
東京都台東区浅草二丁目28番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分55.66秒 東経139度47分40.84秒 / 北緯35.7154611度 東経139.7946778度 / 35.7154611; 139.7946778座標: 北緯35度42分55.66秒 東経139度47分40.84秒 / 北緯35.7154611度 東経139.7946778度 / 35.7154611; 139.7946778
公式サイトhttps://www.hanayashiki.net/
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株式会社花やしき種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
111-0032
東京都台東区浅草二丁目28番1号
法人番号2010501022977
代表者代表取締役社長 西川 豊史
資本金4億8000万円
純利益▲1億8956万7000円(2020年03月31日時点)[1]
総資産36億6004万2000円(2020年03月31日時点)[1]
決算期3月末日
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浅草花やしき(あさくさはなやしき)は、東京都台東区浅草浅草寺の西側にある遊園地1853年嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。

敷地面積5,800m2。国産初、日本で現存最古のローラーコースターがある。現在はバンダイナムコアミューズメントの子会社である株式会社花やしきが運営している。
歴史

1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約8万m2だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥女中らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だった。

明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。

この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラクマなど動物の展示などを開始したり、丸山伝右衛門宅から移築した五階建ての楼閣を奥山閣と名付けて、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネットヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。

大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した。この震災以降に子供むけの娯楽場へと変わり、鬼退治、木馬、豆汽車などが人気であった。

赤字続きのため徐々に規模を縮小し、まず1935年(昭和10年)に仙台市立動物園に動物を売却。翌年の春先には動物の移送を終え、木馬などの遊具も取り壊して事実上閉園した[2]1939年(昭和14年)、須田町食堂(「聚楽」)が買収し、名称も「食堂遊園地浅草楽天地」に変更。

松竹によって合資会社浅草花屋敷が設立され、天野鉄男が支配人に就任。劇場映画館と共に再度遊戯施設「劇場楽天地」が設けられたが、1942年(昭和17年)には強制疎開によりついに取り壊された。終戦直後、敷地内は不法占拠されていたが、1946年8月に東京都から合資会社浅草花屋敷に対する借地権の回復が認められる。それでも不法占拠は継続されていたが、天野は当時、あらかわ遊園豊島園も受託していた実績があった東洋娯楽機の山田貞一に共同経営を持ちかけ、山田の尽力で何とか敷地が回復。1947年(昭和22年)春に遊園地「浅草花屋敷」として再開園。2年後には東洋娯楽機に経営自体が委ねられ「浅草花やしき」と改名。のちの花やしきの園長を務めた高井初恵(山田の娘)の夫である高井清が支配人に就任した。

そして1953年(昭和28年)に国産初のローラーコースターなど現在もあるアトラクションが登場し始めた。天野の関係する中映も園内に植物園を設置していた。長らく入園料を取らず、利用する施設ごとに回数券などで料金を支払う形を取っていた。

しかし、近隣の場外馬券場 (現在のWINS浅草)から流れた労務者達が園内を占拠し、また彼らが泥酔状態であることも少なくなかったため、園内の風紀が乱れており、運営上悩みの種だった。併設していたゲームセンターが少年達のたまり場となっていた点を浅草警察署から勧告を受けていたことと、またもともと収益が上がりにくいことを理由に1985年(昭和60年)の風営法改正に伴い回数券とは別に入園料の徴収を開始した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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