浅草紅団
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浅草紅團
訳題The Scarlet Gang of Asakusa
作者
川端康成
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態新聞連載・雑誌掲載
初出情報
初出「浅草紅團」-『東京朝日新聞1929年12月12日号-1930年2月16日号 挿画:太田三郎
「浅草赤帯会」-『新潮』1930年9月号(第27巻第9号)
「浅草紅團」-『改造』1930年9月号(第12巻第9号)
刊本情報
刊行『浅草紅團』
装幀:吉田謙吉。装画:太田三郎
出版元先進社
出版年月日1930年12月5日
収録『モダン・TOKIO・圓舞曲』(途中まで)
出版年月日1930年5月8日
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『浅草紅団』(あさくさくれないだん)は、川端康成長編小説。旧漢字表記では『淺草紅團』。全61節から成る。川端が30歳から31歳にかけての執筆作で、昭和初頭の浅草の人間模様を見聞記風・叙景詩風に描いた作品である[1]。昭和モダニズム文学とも呼ばれ、この作品の影響で、浅草を訪れる人々が増えるという浅草ブームが起きた[2][3][4]

姉を捨てた男への復讐のために、浅草の街をさまよう不良少年少女パフォーマンス集団「浅草紅団」首領の中性的美少女に案内され、浅草の裏社会に生きる人々の有様を綴る「私」のルポルタージュ風な物語。関東大震災以降の都市の街並、浮浪者、乞食、娼婦ポン引き踊子見世物小屋エログロナンセンスなどの美と醜が混在する風俗、新旧の現象が、世界恐慌から昭和恐慌の波が押し寄せる不穏な空気感を背景に、抒情的な目線で描かれている。
発表経過

先ず1929年(昭和4年)、『東京朝日新聞』夕刊12月12日号から翌1930年(昭和5年)2月16日号まで37回にわたり連載された(挿画:太田三郎[2][5]。数か月間休止を経た続きの38回以降は、雑誌『新潮』9月号(第27巻第9号)に38節から51節が「浅草赤帯会」と称して掲載され、雑誌『改造』9月号(第12巻第9号)に52節から61節が「浅草紅團」と称して掲載された[5]

以上の61回分をまとめた単行本『浅草紅團』は、同年1930年(昭和5年)12月5日に先進社より刊行された[5][注釈 1]。なお、これに先立つ同年5月8日にも、途中までが『モダン・TOKIO・圓舞曲』に収録された[5]。文庫版は講談社文芸文庫より刊行されている。

翻訳版は1999年にRichmod Bollinger訳(独題:Die Rote Bande von Asakusa)によりドイツで、2005年にAlisa Freedman訳(英題:The Scarlet Gang of Asakusa)によりアメリカで行われており、2013年にMeiko Shimon訳(葡題:A Gangue Escarlate de Asakusa)によりブラジルで行われている。
構成・作品概説

『浅草紅団』には、はっきりと一貫した物語性はなく、〈私〉が見聞した様々な断章から成っている。浅草のアンダーグラウンドを、小説家の〈私〉が、〈温かい寝床のある諸君〉に紹介するという体裁をとり、その中で弓子と春子という中心的人物をめぐる挿話が織り込まれている。

しかし、主人公ともいえる不良少女・弓子をめぐる物語的展開が途中からトーンダウンし、未完の様相となって終わる[6]。そのため、続編となる『浅草祭』を1934年(昭和9年)、雑誌『文藝』9月号から翌1935年(昭和10年)3月号まで連載したが、この『浅草祭』も未完に終った。なお『浅草祭』には、弓子は登場しない。

また作中内には、様々なものからの引用がなされており、谷崎潤一郎の『鮫人』、添田唖蝉坊の『浅草底流記』[注釈 2]歌謡曲の歌詞、妙音院浅草寺の開帳に際して発行された『姥之池略縁起』の要約、興行街の看板の文言などからの、多くの言葉がちりばめられている。また随所に、テキ屋の使う隠語などが取り込まれている。

なお、新聞での連載が終った時点で、高見定衛監督により映画化されたが、そのことが、休止あけの続きの節「浅草赤帯会」内で、語り手の「私」(小説家)により言及されている。

川端康成は、『浅草紅団』にはモデルは一人もなく、架空の物語であって作中に出てくる「浅草紅団」、「浅草紫団」、「浅草赤帯団」、「黒帯団」などという不良少女少年団の名称も仮作であるとして、次のように述べている[2]。もし強ひてモデルをもとめるとすれば、佐藤八郎氏、添田唖蝉坊氏、石角春之助氏などの浅草の本、また不良少年研究家たちの本であらうか。それらの本のところどころを拾ひ、つなぎ合はせた部分もあるが、それらの本から浅草の雰囲気を与へられた恩恵は非常なものである。私は浅草になじむことも、浅草にはいることも出来なかつた。浅草の散歩者、浅草の旅行者に過ぎなかつた。さういふ好奇心が「浅草紅団」を書かせた。それがこの作品の長所でもあり、より多く短所である。 ? 川端康成「浅草紅団」について[2]

なお、『浅草紅団』発表6年後の資料『近代庶民生活誌』によれば、「紅団のお辰」という実在の不良少女が浅草にいたという記録があるという[9]
川端康成と浅草

川端康成にとって、伊豆鎌倉が馴染み深い地であることは有名であるが、浅草も、昭和初期の川端には縁の深いものであった。川端のところに新聞夕刊小説の話が持ちかけられ、「浅草」を書いてみようと思いたったのは、川端が1917年(大正6年)に一高入学のため東京に出て以来、浅草が好きで通っていたこともあった[2]

また『浅草紅団』を書き出す2か月前から、ちょうど荏原郡馬込町の臼田坂近辺(のち大森区。現・大田区南馬込3丁目33)から下谷区上野桜木町(現・台東区上野桜木2丁目)へ引っ越して[1]上野公園裏の桜木町から鶯谷陸橋を渡り、浅草公園の裏へ、よく歩いて日夜通っていたことも動機となった[2]

川端は当時について、〈上野公園の裏から浅草公園までは、歩いても近いし、円タクも多いころで、私は夜昼浅草に通つた。水族館に旗揚げしたカジノ・フオウリイを『浅草紅団』の場面に取り入れたことから、そのレヴュウ団の文芸部員や踊子とも親しくなつた〉と回顧し[10]、カジノ・フォーリーの踊子たちとは、毎年大晦日に百八つの除夜の鐘を聞きながら萬世庵で年越しそばを食べるのが習慣だったと語っている[10]

そして川端はその後、鎌倉に引っ越すまでの5、6年の間に、『浅草の九官鳥』『浅草祭』『浅草日記』『虹』『浅草の姉妹』『寝顔』など浅草の小説を書いた[1][10]。川端が親しくしていた文芸部員は島村龍三で、踊子たちは梅園龍子花島喜世子、吉住芳子、望月美恵子(のちに望月優子)などであった。川端が初めて水族館に行った時に、半纏に腰帯姿の梅園龍子が「かっぽれ」を踊っていたという[3]

『浅草紅団』連載から1、2年後の1931年(昭和6年)に川端は、カジノ・フォーリーから踊子・梅園龍子を引き抜き、バレリーナに育てようとした[2][11]。梅園は当時、15、6歳で、10年近く川端に師事したが、恋愛関係はなかったという[2]


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