「浅草寺」とは異なります。
浅草神社
拝殿
所在地東京都台東区浅草二丁目3番1号[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分54.5秒 東経139度47分50.8秒 / 北緯35.715139度 東経139.797444度 / 35.715139; 139.797444
浅草神社(あさくさじんじゃ)は、東京都台東区浅草に所在する浅草寺本堂の東隣りに鎮座している神社である。通称に三社権現(さんじゃごんげん)、三社様(さんじゃさま)。5月例大祭は三社祭という。 浅草寺の創建に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)を主祭神[2]とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・竹成の他のもう一柱の主祭神については諸説ある[注釈 1]が、浅草神社では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。 社伝によれば、推古天皇36年(628年)3月18日、漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。 実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている。 明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。
祭神
歴史
境内
社殿(本殿・幣殿・拝殿)- 社殿は浅草寺本堂の東(北東)隣りにある。現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649年)に完成したもので、昭和26年(1951年)に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定された[4][注釈 2]。
手水舎
鳥居
神木(槐の木)
神輿庫
神楽殿
夫婦狛犬
石碑
三柱の石碑 - 祭神と由緒。
ほととぎすの碑 - 浅草庵市人の狂歌「ほととぎす なかぬもうれし まつうちは 世のうさきかぬ 耳とこそなれ」
花柳壽輔碑 - 日本舞踊花柳流宗家家元・四代目花柳壽輔の襲名記念「雷ハ 田町をよけて 鳴りわたる」
扇塚 - 毎年4月8日に古い扇子のお焚き上げ。
榧樹碑(かやのきひ)
初代中村吉右衛門句碑 - 「女房も 同じ氏子や 除夜詣」
花塚 - 華道「濁(にごり)流」の師・笠翁斉乱鳥の追慕碑。
河竹黙阿弥顕彰碑 - 江戸末?明治期の歌舞伎狂言作者。
こち亀石碑
百度石 - 百度参り用。
初代市川猿翁句碑 - 「翁の文字 まだ身にそはず 衣がへ」
粧太夫(蕋雲)碑 - 教養高い吉原遊女・粧太夫(蕋雲)の顕彰碑。
久保田万太郎句碑 - 「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」
川口松太郎句碑 - 「生きるということ むずかしき夜寒かな」
境内社
被官(ひかん)稲荷神社 - 安政2年(1856年)創建、祭神・倉稲魂命、例大祭3月18日[7]。
境外社・兼務社
浅草富士浅間神社 - 祭神・木花咲耶比売命、例大祭7月1日[8]。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿及び幣殿 - 江戸時代前期(1649年)頃の建立。本殿、三間社流造、銅板葺。幣殿、桁行三間、梁間一間、一重、前面入母屋造、背面本殿に接続、銅板葺。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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