浅草国技館
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浅草国技館遊楽館時代(1915年頃)
概要
住所 日本 東京府東京市浅草区千束町二丁目5番地[1](現・東京都台東区浅草
経営者山中龜太郎[2]
種類相撲興行場[3]
座席の種類桟敷[4]
座席数12,000人[4]
建設
建設1911年[5][3]
開業1912年2月5日[6][7][8]
改築1913年(劇場「遊楽館」へ改装)[9][10][11]
解体1920年
使用期間浅草国技館:1912年 - 1913年
遊楽館:1913年 - 1917年
吾妻座:1917年 - 1920年
建設費160万円[12]
(本館:25万円)[4]

設計者辰野葛西建築設計事務所[4][3]
建設者遠藤組[3]
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浅草国技館(あさくさこくぎかん、旧字体:淺草國技館)は、東京府東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)にかつて存在した、相撲の興行のための施設。1912年明治45年)に開館し[6][7][8]両国国技館に対して「第二国技館」とも呼ばれた[13]。建物はのちに改装され、劇場「遊楽館」[9]、のちに「吾妻座」となったが[10]1920年大正9年)に焼失した[14][15]。本項では劇場時代についても併せて解説する。
施設

設計は辰野金吾葛西萬司によって行われた[4][5]。「辰野葛西設計事務所」とする資料もある[3]。施工は遠藤組[3]、あるいは遠藤君藏[5]

本館はサラセニック様式(英語版)の木造建築漆喰塗)で[4][3]、4階建てである[16]。「浅草国技館及附属家」の建坪は416.9坪[17]。建築費用は25万円。間口22間、奥行き18間。正面の円柱までの高さは85尺。エレベーターのほか、5ヶ所の階段があった。入口は正面と左右の三つが設けられ、4層の観覧席は全て桟敷となっている。収容人数は12,000人。土俵は4間半四方。南に面して、少し奥まったところに貴賓席があり、「その装飾の美は実に眩い程である」とされた[4]。地下室には売店があった。3、4階からは東京市内を一望することができ、眼下には隅田川があり、更には富士山筑波山房総の山々も眺めることができた[18]

本館の西隣には、16間四面の2階建ての「力士養成場」が併設されており、これは「下部は方形、上部は円形。古代の建築法に則り、丸太組で、柱は地中から樹てられ、一本の釘も用ゐてない」という建築物だった。観客8,000人を収容することができた。大祭日や休日などには、身体を鍛錬することを目的とする、軍人や学生の入場も受け付けていた[19]。これは、「由来力士は放縦に流れ易く、根が無教育の血気者なれば他の刺戟無き儘に識らず知らず浮華軽佻に流れ、堕落の深淵に沈む」ことを危惧し、一般青年との競争によって刺激を与えることのほか、「無気力の青年に対しては不潔なる魔窟入りを防止して完全なる体育遊戯に導かん」との目的もあった[20]

また、貴賓を招請する際に使用する「貴賓館」も併設されており、これはジャーマンセレクション式の3階建てで、坪数60坪、1階は日本風、2階は西洋風、3階は120畳の大広間となっていた[12]

本館・貴賓館・力士養成場の中央には庭園があった。また浅草国技館には「公共的事業」として、150尺以上の蒸気ポンプが3台設置されていた。また力士宿泊所、消防夫宿直所、茶屋などがあった。全ての建物の坪数は1,600坪で、総工費は160万円であった[12]
沿革
計画・建設

浅草国技館は、山中 龜太郎(やまなか かめたろう、元治元年5月10日〈1864年6月13日[2] - 没年不詳)の計画によって建設された。山中は伊勢国神戸出身で、若い頃に上京して起業を志し、様々な事業に手を出したがいずれも上手くいかず、失敗を重ねていた。また山中は生来より、相撲に非常に興味を持っており、大相撲の場所を見過ごしたことはないほどだったとされる。しかし相撲が盛んになる一方で、徴兵統計から国民の体力が減衰しつつあることを指摘し、「如斯国民の体力が貧弱に失しては将来国家の消長にも影響」することを憂いていた。更に、両国国技館が開設されたことにも影響を受け、「奮然国民の体力を挽回すべく、又一面には国粋保存として武士道の衰退をも防止すべく、社会事業として第二の国技舘建設を思ひ立ちたる」に至った[20]。北村博愛も、浅草国技館建設の目的を「わが相撲道を今後いよ/\発展させ、隆盛に趣かしめ、兼ねては、青年力士を養成し併せて武士道を奨励するのを以て目的とするのである」としている[21]

立地に浅草公園が選ばれた理由としては、多くの人が集まる場であるということのほか、「東京在住の学生軍人其の他の職工労働者は日曜大祭日を期して浅草公園に入りて不良遊淫に耽けると云ふが如きは畢竟完全な歓楽場の無きために、公園の不潔は日を追ふて深きに入り、公然一廓の伏魔殿を築きて治外法権国を為してゐる」という実情もあった。山中は「国粋保存の武士道鼓吹と共に都会青年の風紀を改善すべく、(中略)殊更に大魔窟地を撰んで」敷地とし、この際には70数戸を退去させたという[20]

前述の通り設計を請け負った辰野金吾は、両国国技館、名古屋国技館、そして実際には建設されなかった横浜の国技館の設計を請け負っていた[22]。浅草国技館の設計は、建設されなかったこの横浜相撲常設館のものを流用し、一部変更して建設されたものともされる[5]藤森照信は辰野が設計を担当した理由について、「彼が建築界の設計の第一人者であったという以上に、建築界の相撲の第一人者であったという事情によっていたと思われる」とし、学生時代から辰野が相撲好きで、自宅に土俵を作ったり、息子を相撲部屋に通わせたりもしていたことを紹介している[22]


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