浅草公園六区(あさくさこうえんろっく)は、東京都台東区浅草にある歓楽街である。通称は浅草六区または公園六区。「六区」は元々1884年(明治17年)より始まった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指した。 浅草寺周辺の盛り場は元禄時代の頃からで、やがて江戸最大の規模に発展した。明治時代に入り欧米にならって都市公園を造るべく、浅草寺境内は1871年(明治4年)1月の社寺領上知令を受けて明治政府に公収され、1873年(明治6年)1月の『太政官布達第十六号』により1873年3月「浅草公園」と命名された[1]。 1883年(明治16年)9月、浅草寺西側の火除地(通称「浅草田圃」)の一部を掘って池(大池、通称「瓢?池」)とし、掘り出した土で西側と南側の池畔を築地して街区を造成。浅草寺裏手の通称「奥山」地区から見せ物小屋等が移転して歓楽街を形成した。1884年(明治17年)1月、公園地は東京府によって一区から六区までに区画され(同年9月に七区追加、1934年公園地から除外)、その歓楽街は「浅草公園地第六区」となった[2]。 下谷区と浅草区が合併して台東区が誕生した1947年(昭和22年)の4月、「社寺等宗教団体の使用に供している地方公共団体有財産の処分に関すること」という内務文部次官通牒に基づき、同年5月をもって公園地から解除され、やがて浅草寺の所有に戻った[3]。しかし一区から六区までの行政区画上の町名は、そのまま1965年(昭和40年)8月の住居表示制度導入まで残された。 とりわけ1886年(明治19年)5月に浅草公園が開園してからは、浅草公園の名よりも浅草六区の名が先行するまで栄えた。地図の上では、公園六区は旧浅草公園(六区を除く)と地域区分されていた[4]。 1884年(明治17年)4月1日付で公園の差配・世話掛に、劇作家で『江湖新聞』創始者の福地源一郎が任命。主に第六区の経営、公園全体の差配を任されるが、1889年(明治22年)7月に解任となった。 前後して、浅草公園六区は1887年(明治20年)の根岸興行部の「常盤座」に始まり、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が注目を浴びた。1903年(明治36年)には、吉沢商店が日本初の映画専門館「電気館」をオープンした。 1890年(明治23年)に建設された凌雲閣(浅草六区北側)は通称「浅草十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で崩壊した。また、1912年2月(明治45年)、隣地には「浅草国技館」が開館した[5]。 昭和に入ると「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博した。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期も娯楽の場として人気を博したが、1945年(昭和20年)になり東京大空襲で一帯は炎上した。終戦後すぐに再建され、軽演劇、女剣劇、ストリップ、およびその幕間に演じられたコントが注目を浴びた。芸能の殿堂・一大拠点として、六区からスターとなった芸能人も数多かった[6]。 1951年(昭和26年)、浅草寺は観音本堂の再建のためにランドマークであった通称「瓢?池」(古瓢?池を含む)を売却[7]。池は埋立てられ、1952年(昭和27年)に浅草楽天地の映画館「浅草宝塚劇場」と、1954年(昭和29年)には遊園地「楽天地スポーツランド」[8]、1959年(昭和34年)には複合娯楽施設「新世界」が建った[9]。また、1954年に観音本堂から六区興行街までの間が西参道商店街として整備された[10]。 1950年代後半に最盛期を迎えた浅草六区も、高度成長期と呼ばれた1960年代に入りテレビ時代を迎え、1964年(昭和39年)の東京オリンピック以降は東京都区部西側の新宿、渋谷、池袋等の方面に若者の文化が芽生えると、平日は通行人が疎らになるほど人通りは激減した。
略歴・概要凌雲閣 (浅草十二階)の絵葉書。手前は通称「瓢?池」(公園四区)。明治時代明治末期
命名
繁栄
没落
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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