浅沼稲次郎
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日本政治家浅沼 稲次郎あさぬま いねじろう
『経済時代』1960年11月号より
生年月日1898年12月27日
出生地 日本東京府神着村
(現東京都三宅村
没年月日 (1960-10-12) 1960年10月12日(61歳没)
死没地 日本東京都千代田区日比谷公会堂
出身校早稲田大学
前職関東木材労組・東京自由労組・東京製糖労組組合長
所属政党(農民労働党→)
日本労農党→)
社会大衆党→)
無所属→)
日本社会党→)
右派社会党→)
日本社会党
配偶者妻・浅沼享子
衆議院議員
選挙区(東京都第4選挙区→)
(東京都第3選挙区→)
(東京第1選挙区→)
旧東京1区
当選回数9回
在任期間1936年2月21日 - 1942年4月30日
1946年4月11日 - 1960年10月12日
第3代 東京都議会副議長
在任期間1945年10月 - 1946年4月
東京都議会議員
選挙区深川区選挙区
当選回数1回
在任期間1943年9月13日 - 1946年4月10日
第3代 日本社会党中央執行委員長
在任期間1960年3月23日 - 1960年10月12日
その他の職歴
初代 農民労働党書記長
1925年12月1日 - 12月1日(1時間))
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浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次カ、1898年(明治31年)12月27日[1] - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本政治家

東京府神着村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓[注釈 1][2][3]」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた[4]。しかし日比谷公会堂において1960年10月12日(水曜日)に行なわれた3党首立会演説会の演説中に右翼活動家の山口二矢(17歳)に刺され死亡している(浅沼稲次郎暗殺事件)。
経歴
生い立ち

神着村三宅島)の名主庶子として生まれる。父が東京府南葛飾郡砂村(現東京都江東区)で酪農業をはじめ、稲次郎の母とは別の女性と再婚したのを期に実子として認知され引き取られた。その後東京府立三中(現都立両国高等学校)に入学。

医者になれという父の勧めを蹴り、大正7年(1918年)に早稲田大学予科に入学する。このことから父とはしばらく絶縁状態となり、稲次郎は友人の経営する文房具会社に参加して万年筆製作で糊口を凌いだという。早大在学中には雄弁会と恵まれた体格を活かして相撲部に在籍した。さらに漕艇部にも所属してレースにも出場し、大隈重信に体格の良さを褒められたと語っている[2]

大正8年(1919年)秋、大正デモクラシー期における代表的な学生運動団体である建設者同盟の結成に加わることにより社会主義運動に飛び込み、同志たちと全国の小作争議労働争議を応援する日々を過ごした。また、軍部への協力を目的にした学生団体(早大軍事研究団)への抗議集会の際には、みずから演説し運動部員や外部の右翼団体から殴る・蹴るの暴行を受けたりもした(早大軍研事件)。関東大震災発生時は群馬県で集会に参加しており、あわてて東京に戻ったが、農民運動社の建物に身を寄せていたところ兵士に捕まり、騎兵連隊の営倉に拘束され、のち市ヶ谷監獄に入れられて看守から態度が悪いと暴行を受けた[2]

1923年に早稲田大学大学部政治経済科を卒業した後も、浅沼は社会主義運動を続け、1925年には日本初の単一無産政党である農民労働党の書記長に26歳の若さで推薦されたが、この党は結党から僅か1時間で政府の命令で解散させられた。
国家社会主義への傾倒

1926年、単一無産政党として、労働農民党が結成されるが、まもなく社会民衆党右派)・日本労農党中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。1932年、分裂する無産政党を糾合し社会大衆党が結成されると浅沼もこれに加わったが、このとき浅沼は書記長の麻生久の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力によって社会変革を目指そうという国家社会主義的な路線を打ち出すとこれを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。1933年東京市会議員1936年には衆議院議員選挙に初当選。1940年に同議員の斎藤隆夫が、泥沼化する日中戦争に対して解決策を見いだせないまま戦争を継続する政府・軍部の姿勢を批判した反軍演説を行った時、その除名にも賛成した。

1940年に大政翼賛会が発足すると臨時選挙制度調査部副部長に就任した[5]。しかし同年に麻生が急死、心のよりどころを失った浅沼の精神的苦痛は大きく、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)での立候補も辞退し、国政から一時離れることになった。しかし、このことが戦後の公職追放を免れる理由ともなった。同じ年、東京市会議員選挙に立候補するが、官憲の妨害に合い落選。東京都制が敷かれて最初の都議会議員選挙にも立候補し、当選して副議長に就任した[6]玉音放送は深川の自宅アパートで聴いた[2]
日本社会党時代1955年『日本社会党20年の記録』(1965年11月)

1945年日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。中間派の指導者だった河上丈太郎三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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