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をお願いします。(2015年10月)浅沼稲次郎暗殺事件
浅沼稲次郎暗殺の瞬間
場所 日本・東京都千代田区日比谷公会堂
標的浅沼稲次郎日本社会党委員長
日付1960年(昭和35年)10月12日
武器脇差のような刃物
死亡者浅沼稲次郎
犯人山口二矢
容疑殺人罪
動機社会党への抗議
対処山口の逮捕
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浅沼稲次郎暗殺事件(あさぬまいねじろうあんさつじけん)は、1960年(昭和35年)10月12日(水曜日)に東京都千代田区の日比谷公会堂で開催された自民党・社会党・民社党3党首立会での演説中の浅沼稲次郎日本社会党中央執行委員会委員長(日本社会党党首)が17歳の右翼少年・山口二矢に刺殺された事件である。「浅沼社会党委員長暗殺事件」と称されることもある[1]。
事件は少年の狙いの逆効果となり、事件前に日本社会党は党内の反共社会主義である民主社会主義派が民主社会党を創設という党内分裂もあり、議席減が予想されていたが、事件による同情の影響で1960年11月の衆議院総選挙で党首立会の3党のうち民社党のみ議席を減らし敗北した。民社党か社会党どちらが野党第一党となるかを決めた事件であり、日本社会党による野党第一党の地位獲得による55年体制確立の原因となった[2]。 近く解散・総選挙が行われる情勢の中で、日比谷公会堂ではこの日、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(主催:東京都選挙管理委員会、公明選挙連盟、日本放送協会)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長西尾末広、日本社会党委員長浅沼稲次郎、自由民主党総裁池田勇人の順で登壇し演説することになっていた。 浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めたが、直後に右翼団体の野次が激しくなり、「中ソの手先、容共社会党を打倒せよ」などと書かれたビラを撒く者も出始めた。司会を務める小林利光(NHKアナウンサー)は「会場が大変騒々しゅうございまして、お話が聞きたい方の耳に届かないと思います。だいたいこの会場の最前列には新聞社関係の方が取材においでになっている訳ですけれども、取材の余地がないほど騒々しゅうございますので、この際、静粛にお話を伺いまして、この後、進めたいと思います」と自制を求めると、場内は拍手が沸き上がり、一瞬野次は収まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた[3]。 浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り約33センチメートルの脇差様の刃物[注釈 1][注釈 2]で浅沼の左脇腹を深く、左胸を浅く突き刺した[5]。浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書官は浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのことであり、実際には一撃目の左脇腹に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって背骨前の大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。山口は現行犯逮捕された[3]。 事件発生直後に大日本愛国党総裁赤尾敏らが壇上に駆け上がり、三党の党首のみに演説させることについて司会者に向かい抗議を始めた。
事件の経過