浅口郡
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岡山県浅口郡の位置(緑:里庄町)

浅口郡(あさくちぐん)は、岡山県備中国)の

人口10,729人、面積12.23km²、人口密度877人/km²。(2024年5月1日、推計人口

以下の1町を含む。

里庄町(さとしょうちょう)

郡域

1878年明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、下記の区域にあたる。

倉敷市の一部(水島海岸通、水島高砂町、水島青葉町、水島南幸町、水島北幸町、水島南春日町、水島北春日町、水島南緑町、水島北緑町、水島東川町、連島町連島、西阿知町新田、西阿知町、船穂町水江、船穂町柳井原、船穂町船穂、玉島陶より南西)

笠岡市の一部(大島中・西大島・西大島新田)

浅口市の全域

歴史

716年霊亀2年)、『続日本紀』8月癸亥の条で初見。備中国には都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡をおいたとされる。浅口郡には八郷(阿知郷・間人郷・船穂郷・占見郷・川村郷・小坂郷・林郷・大島(嶋)郷)。郡衙推定地は不詳である。

かつては、郡域の南部は海域であり、大島、柏島、乙島などの島嶼が存在し、大島と本州側は水道となっていた。薗水道東部の海域(現在の倉敷市玉島中心部あたり)は「甕の海」「甕の泊」「玉の浦」と呼ばれる入江であった。しかし中世以降の干拓による新田開発により、陸続きとなった。また連島(都羅郷)は、古代においては備前国児島郡に属していたが、後の時代に備中国浅口郡に編入となった。

郡名の由来としては、古代吉備国におかれたのひとつである波区芸県(はくきのあがた)が変形したものであるという解釈が有力とされる[1]。他に俗説として、郡南部が海域だった時代に、甕の泊に入る際には、出入口の浅い部分が難所となったらしいとのことであり、そこから浅い口の名で呼ばれるようになったとの伝承がある。
近世以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が存在。(63村)

知行村数村名
幕府領倉敷代官所10村片島村、乙島村、阿賀崎新田村、西組[2]、黒崎村、矢柄村分[3]、西之浦分[4]、西勇崎村[5]、勇崎浜、押山浜
旗本領交代寄合山崎氏)4村西之浦村、●矢柄村、鶴新田村、亀島新田村
旗本領(その他)1村佐方村
藩領備中岡山新田藩21村西阿知新田村、七島村、島地[6]、道越村、八重村、上竹新田村、占見新田村、小坂東村、深田村、大島中村、西大島村[7]、東大島[8]、西大島新田[9]、六条院西村、六条院中村、六条院東村、本庄村、小坂西村、鴨方村、口林村、池口[10]
備前岡山藩10村西原村、上竹村、下竹[11]、道口[12]、富[13]、亀山村[14]、占見村、地頭下村、地頭上村、益坂村[15]
丹波亀山藩6村上船尾村、下船尾村、長尾村、水江村、柳井原村、東勇崎村
備中浅尾藩3村大谷村、中島新田[16]、須恵村


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