浅倉 久志(あさくら ひさし、本名:大谷善次、1930年3月29日 - 2010年2月14日)は、日本の翻訳家。SF作品の翻訳で著名であり、特にカート・ヴォネガット、フィリップ・K・ディック、ウィリアム・ギブスンの作品を多く翻訳している。また、同業者の伊藤典夫と共に、R・A・ラファティ、コードウェイナー・スミス、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.といった異色の実力派作家を日本に紹介した。
日本の代表的な海外SF翻訳家の一人である。なお、エッセイ集によると日本から外に出たことはないという[1]。日本SF作家クラブ会員。 大阪府大阪市出身。1947年、大阪外事専門学校(1949年に大阪外国語大学に改称、現大阪大学外国語学部)に入学、英米科を1950年に卒業。浜松市の織物会社に就職し、1959年に結婚。1960年に当時高校生だった伊藤典夫と知りあう。大学進学で上京した伊藤の紹介により、1962年フレデリック・ポール「蟻か人か」の翻訳でデビュー[2]。また「東海SFの会」で活動していた岡部宏之を勧誘してSF翻訳家に。1966年に退職し、以後翻訳を専業にした。 雑誌の同じ号に掲載される複数の作品を、同一の訳者が翻訳しているのは良くない(名義を変えたほうが執筆者が多くにぎやかに見える)という1960?70年代当時の考え方や、競合出版社では名義を変えたほうがいいという事情もあり、深谷節、沢ゆり子、牟礼一郎、大谷圭二といった多くの別名がある[3]。それらの名称のうちもっとも知名度が高く、本項目の見出しにもなっているのは浅倉久志名義だが、これはSF作家アーサー・C・クラークの名前をもじったものという[4][5]。 作品への嗜好から言えば、ユーモラスな作風をこよなく愛好し[6]、ユーモアSFばかりをあつめたアンソロジー『世界ユーモアSF傑作選』全2巻や『グラックの卵』をみずから編集している。 また、小説以外にも、「ニューヨーカー」全盛期のアメリカで人気を博した、ロバート・ベンチリー
経歴
矢野徹がはじめた「翻訳勉強会」にも中心的なメンバーとして参加していた。また、浅倉が中心となって、翻訳家の交流会「エイト・ダイナーズ」が、小尾芙佐、深町眞理子、大村美根子、山田順子、佐藤高子、鎌田三平、白石朗というメンバーで行われていた[8]。
2006年に初のエッセイ集『ぼくがカンガルーに出会ったころ』が出版された。
2010年2月14日、心不全で死去[9][10]。2010年12月、日本SF大賞特別賞受賞。
なお、村上春樹は柴田元幸との対談において[11]、自身に影響を与えたアメリカ文学の翻訳文として、「藤本和子のリチャード・ブローティガンの翻訳」「飛田茂雄・浅倉久志のカート・ヴォネガットの翻訳」をあげている。