凡例浅井 久政
持明院蔵
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕大永6年(1526年)
死没天正元年8月27日(1573年9月23日)
改名猿夜叉(幼名)、久政
別名新九郎、祐政?
戒名久岳良春[1]
甲堅院殿前野州太守丘嶽良峻大居士[2]
墓所徳勝寺(長浜市)
官位左兵衛尉、下野守、宮内少輔[2]
主君京極高広
氏族近江浅井氏
父母父:浅井亮政、母:馨庵寿松(尼子氏の娘)
兄弟久政、政弘、虎夜叉(山城守)、鶴千代(田屋明政室)、松市御料、義兄弟:田屋明政
妻小野殿(井口経元
浅井 久政(あざい[注釈 1] ひさまさ、淺井 久政)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北近江の戦国大名・浅井氏当主。 大永6年(1526年)、浅井亮政と側室・尼子氏(後に出家し馨庵寿松)との間に生まれる[3][4]。幼名は猿夜叉、通称は新九郎。母尼子氏は26歳の時に久政を産んだとされる(『蓮華会頭役門帳』)[5]。 父亮政は、浅井氏の庶家から宗家へ婿養子に入ったのだが、亮政と正室・蔵屋との間に産まれた男子・新四郎政弘は早世していた。そのため、蔵屋の娘・鶴千代の婿に田屋明政を迎え、浅井新三郎明政[注釈 2]と名乗らせ亮政の跡を継がせるはずであった[6][4][7]。 天文11年(1542年)1月6日、亮政が死去したため、17歳の久政が家督を継承した[8]。このとき久政と明政の間で家督争いが発生したかは明らかでない。亮政が言い置いたから、蔵屋・鶴千代と尼子氏の関係が良好だったから[9]、あるいは六角定頼の影響があったから[10]内紛に発展しなかったとも言われているが、高橋昌明は当人らが納得したとしても互いの派閥間で内紛・暗闘が続いたのではないかとしている[8]。家督相続を確実なものにした久政は天文13年(1544年)4月6日に徳昌(勝)寺で亮政の法要を営んでいる[11][12]。 亮政の死と若年の久政の家督継承を好機とみて動きを見せたのは亮政のかつての主君、京極高広だった。浅井氏は元来京極氏の被官であり、亮政は高広の父・高清に従い南近江の六角氏に対抗していた。しかし天文7年(1538年)に高清が死去すると六角氏は攻勢を強め、亮政は六角定頼の軍門に降った。これをよしとしない高広は天文10年(1541年)に亮政に対し挙兵した[13]。久政の家督相続はそのような時期に行われたものだった。 高広は早くも天文11年1月11日に国人領主への知行宛行を約束している(「下坂文書」)[14][15][16]。久政と高広の軍勢が直接衝突するのは天文13年(1544年)8月のことである[17][15][18]。 天文15年(1546年)7月に海津で合戦があり、久政も出陣して敵味方合わせて360人の死者が出たことが知られる(「菅浦文書」『長命寺過去帳』[19])が、誰と戦ったのかははっきりしない[20]。 天文19年(1550年)ごろ、久政と高広の間で和議が成立したものとみられる[21][22]。
生涯
家督相続まで
京極高広との戦い