浅井えり子
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浅井 えり子

選手情報
フルネームあさい えりこ
ラテン文字Eriko Asai
国籍 日本
種目長距離走マラソン
生年月日 (1959-10-20) 1959年10月20日(64歳)
生誕地東京都足立区
自己ベスト
5000m15分41秒80 (1992年)
10000m32分22秒18 (1992年)
ハーフマラソン1時間10分51秒 (1992年)
30km1時間43分26秒 (1991年)
マラソン2時間28分22秒 (1993年)

獲得メダル

陸上競技
アジア競技大会
1986年 ソウル女子マラソン


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浅井 えり子(あさい えりこ、1959年10月20日 - )は日本女子の陸上競技選手及び指導者で、競技種目は長距離走マラソンである。帝京科学大学客員教授、同大学女子駅伝チームアドバイザー、足立区教育委員[1]

主な実績に1988年ソウルオリンピック・女子マラソン日本代表(25位)、1986年ソウルアジア競技大会・女子マラソン金メダリスト1994年名古屋国際女子マラソン優勝など。
経歴
大学3年生でマラソン初挑戦

東京都足立区出身。東京都立足立高等学校に入学してから間もなく、友人からの誘いを機に陸上競技部へ入部するも、特別目立った成績は残せないままで、高校を卒業した[2]文教大学に進学後も再び陸上部に所属[3]。同大学の3年在学中だった、1980年11月の第2回東京国際女子マラソンへ初マラソンに挑戦し12位、3時間0分台のゴールタイムで完走を果たした[2]
実業団入り後

大学卒業後の1982年4月、佐々木功監督の率いる日本電気ホームエレクトロニクス(略称・NEC-HE。当時は新日本電気)へ入社。同社陸上競技部へ入部してから、女子マラソンで頭角を現し始める(NEC-HE陸上部は当時より男子部員のみ所属で、その後も女子部員は浅井一人だけであった)。

ロサンゼルスオリンピックの選考レースだった1984年3月の名古屋女子マラソン(のち名古屋国際女子マラソン)では、2時間38分台のタイムで日本人最高の4位となるが、増田明美佐々木七恵の二人とは力の差があるとして、惜しくもロス五輪代表には選出されなかった。ロス五輪後の1984年11月、東京国際女子マラソンではドイツ(当時東独)のカトリン・ドーレに次ぐ2位入賞を果たし、当時日本女子歴代2位となる2時間33分台の好タイムを記録した。直後に増田・佐々木が相次いで一線を退いたため、浅井らが日本女子長距離走・マラソンの第一人者となる。東京国際のゴール直後の会見では、浅井の「全て佐々木監督のおかげです」というコメントが注目されてからマスコミ陣が殺到するが、この頃の浅井は「私はタレントじゃないから何度も取材は受けたくない」とウンザリしていたという[2]
ソウルアジア大会で金メダル獲得

1985年4月のワールドカップ広島大会女子マラソンへ、浅井自身初めての日本代表として出走したが、日本選手では首位ながら9位に留まった。翌1986年1月の大阪国際女子マラソンでは、優勝したロレーン・モラーに続いて準優勝。同年10月のソウルアジア大会女子マラソンでは、同じ日本代表の宮原美佐子らと競り合うが、浅井がレース終盤抜け出してマラソン初優勝。2時間41分台の平凡な記録ながらも金メダルを獲得し、アジア大会女子マラソンの初代女王と成った。

1987年8月の世界陸上選手権ローマ大会女子マラソンにも代表選出(26位)、ほか横浜国際女子駅伝にも数回日本代表として出走するなど、数々のビッグレースに出場する。この間、日本女子初の2時間30分突破が期待されたが、記録面では1984年の東京国際女子を上回れない状況が続いていた[2]
ソウルオリンピックに初選出・日本女子最高の25位

1988年1月の大阪国際女子マラソンには、同年9月開催のソウルオリンピック女子マラソン日本代表の座と、日本女子最高記録をかけての出場となった。レース後半の30Km手前で、浅井は宮原美佐子と激しいデッドヒートを展開するが、35km過ぎで宮原のロングスパートを許して突き放され、41km過ぎでは荒木久美にもかわされて4位に落ち、最後は精根尽き果ててゴール手前でよろけて転倒してしまう程であった(宮原は日本女子初の2時間30分突破を達成、2位・宮原と3位・荒木の二人がソウル五輪代表即内定)[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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