浄瑠璃
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「浄瑠璃」のその他の用法については「浄瑠璃 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

浄瑠璃(じょうるり)は、三味線伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽である。

詞章が単なるではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶ。

江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節[注 1]河東節一中節常磐津節富本節清元節新内節宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。

単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる(流派ごとの上演形態については後述)。
歴史
起源傀儡子

戦国時代ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』。作者は「百家系譜」によれば小野阿通という織田信長に仕える侍女で、大病のため静養していた信長のために三味線を用いて語ったという説が江戸時代までは有力であったが、現在までに様々な学者により議論が進められ、享禄4年(1531年)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から浄瑠璃が存在していた、との記述があり、それを当道座に所属していた琵琶法師によって、平曲(平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節づけがなされ、はじめ琵琶で演奏されていたものが、虎沢検校に師事した沢住検校によって三味線を用いて語るようになり、それを小野阿通が信長に聞かせたという説が一般的である。
浄瑠璃物語(浄瑠璃姫十二段草紙)愛知県岡崎市康生町にある浄瑠璃姫の供養塔。国道1号の拡張工事の際に発見された[1]

浄瑠璃御前(浄瑠璃姫、もしくは三河国矢矧宿の遊女)と牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚をまじえたものを語っての功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、「浄瑠璃」の名もここから生まれたものである。浄瑠璃とはサンスクリット語からの訳で、清らかな青いサファイヤを意味し、薬師如来の浄土はこれによって装飾されているとされた[2]

その内容はだいたいにおいて享禄年間(1528?32年)には完成していたと考えられる。最初期は平曲謡曲説経節などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、永禄年間(1558?1570年)に琉球から三線が渡来し、これが三味線へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは上方盲人であったが(上方地歌)、沢住検校が浄瑠璃と合体させ、さらに文禄年間(1593?1596年)にいたってこれが傀儡子の伴奏として用いられるようになり、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。浄瑠璃姫十二段草紙の構成は下記のとおり。

一段 「申し子の段」 - 姫父母の素性。申し子すなわち神仏に子を願うこと。浄瑠璃の由来。

二段 「花そろえの段」 - 姫の庭に咲く美しい花の描写。

三段 「美人そろえの段」 - 姫の侍女たちの美を形容。

四段 「そとの管弦の段」 - 姫と侍女たちの管弦に、牛若丸が門外で笛を合わせる。

五段 「笛の段」 - 牛若の服装と容姿の美に侍女たちが騒ぐ。

六段 「使ひの段」 - 姫が使いを出し歌によって牛若の心を引き、謎かけをする。

七段 「忍びの段」 - 牛若が忍び入ろうと、故事を引き、姫の心をうかがう。

八段 「枕問答」 - 仏法になぞらえて姫に問い詰め、姫が負けて無言になる。

九段 「やまとことばの段」 - さらにやまとことばで問い続け、姫に口を開かせる。

十段 「御ざうつりの段」 - 一夜の契りの後、朝の別れ。

十一段 「吹上の段」 - 吹上の浦で牛若が奇病にかかり、姫が八幡山の知らせで駆けつける。

十二段 「御曹司東くだりの段」 - 両人は記念の品を交わし、牛若は奥州に下る。


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