流刑
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藤原信実『承久本北野天神縁起絵巻』。太宰府へ流罪となった菅原道真が恩賜の御衣を見て涙を流している。

流刑(るけい、りゅうけい)とは、刑罰の一つで、罪人を辺境やに送り、その地への居住を強制する追放刑の一種[1]。日本においては律令制五刑の一つ流罪(るざい)が知られ、流刑と同義語で用いられることもある。流刑地に処することは配流(はいる)という。

歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた[2]。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝後醍醐天皇ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。

日本では離島・僻地への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。

一般的な日本語としては単に「島流し」という場合もある。英語においては、イギリスにおいて導入された国外の流刑地に送る措置は「Penal transportation」と呼ばれる。「Banishment」は流刑を含む追放刑を指す言葉であり、「Exile」は追放刑一般や亡命を含む。
日本における流罪
歴史「日本における追放刑」も参照

記録に残る最初の流刑は允恭天皇時代に兄妹で情を通じたとして軽大娘皇女木梨軽皇子伊予国に流したものがある。古代の流刑は特権階級に対する刑罰であり、政治的な意味合いが強かった[3]。古代には神の怒りに触れたものを島に捨て殺しにすることがよく行われており、これが流罪の萌芽ともされる[4]

律令制の導入ともに用いられた「流罪」は律における五刑の1つであり、畿内からの距離によって「近流(こんる/ごんる)」、「中流(ちゅうる)」、「遠流(おんる)」の3等級が存在した。927年に成立した延喜式によれば、追放される距離は近流300里、中流560里、遠流1500里とされている。実際には、罪状や身分、流刑地の状況などにより距離と配流先は変更された[5]。配流された人物は刑地への居住を強制され、一定期間の徒刑を科せられた[4]。平安時代には流刑者の護送は検非違使によって行われていたが、末期には武士によって行われるようになった[6]。また平家政権期では藤原成親などの流刑は朝廷の刑罰ではなく平家による私刑であったとも見られており、武士による流刑はこの時期に始められたと見られる[7]

鎌倉時代に入ると、流刑者の護送を含む諸業務は関東諸公事とされ、守護地頭によって行われるようになった[8]。また朝廷の刑罰だけではなく幕府の刑罰としても流罪は行われるようになり、凡下非御家人も対象となり、犯罪には盗みや殺人も含まれるようになった[8]

室町時代中期から末期(戦国時代)における流罪は、幕府の秩序が京都近辺にしか及んでいないことから、権力闘争に敗れた公家や武者などが流罪を受けると、流刑地にたどり着くまでに落ち武者狩りの対象となって命を落とすことが多く、流刑地まで無事に辿り着くことも容易でないために、実質的には死罪として機能し、当時もそのようにみなされていた(『看聞日記永享六年五月十六日条)。中には、流罪を言い渡した足利将軍の手配のもと、護送している人物によって殺害されたケースすらあった[9]。これらは、没落した人間は庇護する人物がいなくなったと同時に保護の対象から外れ、略奪の対象となるのが当たり前、という当時の一般常識がその根柢にあると考えられている[10]。このため、後日赦免することを前提に流罪を言い渡す場合には、事前に身の安全を確保するための特別な政治的配慮を必要としていた[11]


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