活人画
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出典検索?: "活人画" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年10月)
ドイツの踊子オルガ・デスモンドの活人画。20世紀初頭

活人画(: Tableau vivant)とは、適切な衣装を身につけた役者や芸術家の集団が、注意深くポーズをとって絵画のような情景を作ること。しばしば、演劇的な照明を伴う。展示している間は、演者はしゃべったり動いたりしない。したがって、この手法は絵画や写真といった芸術手法と結合し、現代の写真家を惹きつけた。タブロー・ヴィヴァンとも。活人画が最も人気を呼んだのは、19世紀のヌードの活人画であった。
起源

その起源は、Golden Mass のような中世の典礼劇とされている。そのような典礼劇は、王室の結婚式、戴冠式、都市への勝利の入場などの祝い事で行われた。現代の銅像や石像を真似るストリートパフォーマンスにも似ているが、多人数で行われ、行列に沿って精巧な移動式舞台に載っていた[1]
舞台

ラジオ映画テレビができる前、活人画は娯楽形態の1つであった。印刷における色の再現が可能となる以前、活人画は舞台上で絵画を再現するのにも使われた。素人が個人的に行うこともあったが、プロが一連の活人画を舞台上で演じることもあった。この場合、演劇につきものの様々な細かいことを排除してストーリーだけを伝えるという効果があった。このような形式に慣れることで、後のヴィクトリア朝時代やエドワード7世時代の幻灯機のショーやコミック・ストリップ(原型は1890年代に登場)が理解される下地となった。

イギリスでの舞台検閲は、舞台上で女優が(あるいは上半身だけ裸)になって動くことを厳しく禁じていた。このため、活人画はそのような場面を示すのにも使われた。19世紀、そのような舞台としてロンドンの The Hall of Rome のような場所で、"Nymphs Bathing"(ニンフの入浴)や "Diana the Huntress"(女猟師ダイアナ)といった演目が見られた。20世紀になると、ロンドンのウィンドミル劇場(1932年-1964年)では、官能的娯楽として活人画が演じられた。移動興行も行われていた。この種のショーは1970年代にはほぼ見られなくなった。
写真D.O. Hill による写真(1848年)

活人画の手法は、初期の芸術写真の手法として使われた。例えば、1840年代の David Octavius Hill や Robert Adamson の作品である。他にも Oscar Gustave Rejlander の Two Ways of Life(1857年)、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンの 'Xie'、Alexandra Kitchin の St. George and the Dragon(1875年)といった作品がある。近年では、Justine Kurland、Roger Ballen、Jan Saudek、Sandy Skoglund、Gregory Crewdson、Bernard Faucon といった芸術写真家や芸術家が、活人画の手法を使っている。

なお、初期の写真撮影には露光のための時間がかかり、その間ポーズを維持する必要があったという点も関係していると思われる。
映画とテレビ

D・W・グリフィスは、『A Corner in Wheat』(1909年)において劇的な瞬間を演出するために活人画的手法を使った。デレク・ジャーマンピーター・グリーナウェイも同様の手法を使っている。

チャールズ・チャップリンは、『チャップリンの霊泉』(1917年)で、更衣室でカーテンを開けるたびにポーズをとるというシーンを描いた。これは活人画に触発されたものと指摘されている[2]

ジャン=リュック・ゴダールは、ジャン=ピエール・ゴランと共同制作した映画『万事快調』(1972年)での工場の全景のシーンで活人画的手法を使った。

アメリカのテレビドラマ『ギルモア・ガールズ』のエピソード "The Festival of Living Art" では、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などの有名な絵画を活人画で再現している。

ヘンダーソン夫人の贈り物』(2005年)は、ジュディ・デンチ演じるローラ・ヘンダーソン夫人(ロンドンのウィンドミル劇場のオーナー)の物語である。ウィンドミル劇場では、第二次世界大戦中、検閲を逃れるために活人画的ヌードショーの興行が行われていた。

アメリカのテレビドラマ『アレステッド・ディベロプメント』のエピソード "In God We Trust" では、有名な芸術作品を活人画で再現する Living Classics Pageant が登場する。

ガス・ヴァン・サントの『マイ・プライベート・アイダホ』(1991年)では、性交シーンを一連の活人画風に描いている。

日本の活人画

1906年に三越呉服店が発行した「時好雙六(はやりすごろく)」(尾竹国観画)には.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}活人画 問。女学校第一の流行は何ぞや。答。活人画。

という内容のコマがある。女学生の前で活人画を披露する女子が描かれている。[3]
「人気沸騰の額縁ショー」(1947年、新宿・帝都座にて。林忠彦撮影。)

1947年に帝都座で「名画アルバム」の名で活人画が披露された[4]。企画した東京宝塚劇場(のちの東宝)の社長秦豊吉は、三菱商事の商社マンとしてドイツに赴任中だった1920年代にベルリンで活人画「生きた大理石像」を観たことがあり、それを参考に、名画になぞらえて額縁の中で半裸の女性にポーズをとらせた[4]日本初のヌードショー、ストリップと言われ、通称「額縁ショー」と呼ばれた[4]。名画は国内外から選ばれ、岡田三郎助の『海辺裸婦』が最も成功した[4]。演出には東郷青児も協力した[4]。ヌードを見せる時間は長くても30秒程度だったが、定員の5倍あまりの2000人が毎回つめかける盛況となった[4]
関連項目

Living statue


ピグマリオンコンプレックス

脚注^Festivals in Valois France British Library, accessed September 24th, 2007
^ Vance, Jeffrey. “Charlie Chaplin : The Cure”. www.charliechaplin.com. Roy Export S.A.S.. 2024年4月24日閲覧。 “There is a delightful scene in the changing room where Charlie assumes several poses in his swimsuit as the curtains open and close before he dances along to the pool. The scene was inspired by the tableaux vivants, a popular feature of many British music-hall programs.”
^ 三越呉服店・尾竹国観 (1906年). “時好雙六”. 東京学芸大学教育コンテンツアーカイブ. 三越呉服店. 2023年10月12日閲覧。
^ a b c d e f 『行動する異端: 秦豊吉と丸木砂土』森彰英、ティビーエスブリタニカ, 1998、p8-16


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