洪 致文
各種表記
繁体字:洪致文
'"`UNIQ--templatestyles-00000001-QINU`"'?音:Hong Zhi wen
通用?音:Hong Jhih wun
台湾語:Hong-ti-bun
和名表記:こう ちぶん
発音転記:ホン・ヂーウェン
ラテン字:Hung Chih-wen
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洪致文
高雄市の誠品書店での講演時(2011年)
誕生 (1970-12-21) 1970年12月21日(48歳)
台北市
職業気象学者、地理学者、作家、鉄道研究家
言語繁体字中国語
国籍 中華民国(台湾)
教育博士(気象学)
最終学歴国立台湾大学、
カリフォルニア大学ロサンゼルス校
活動期間1992年 -
ジャンル鉄道、気象、郷土史、地理
主題台湾の鉄道、文化資産、戦争史
代表作鐵道情報、他#著書一覧参照
主な受賞歴金鼎奨
洪 致文(こう ちぶん、1970年12月21日 - )は、台湾台北市出身の鉄道作家、地理学者、気象学者。鉄道文化関連の書籍を多数執筆している。
専攻分野においては、中国文化大学大気科学系(気象科学部)を経て現在は国立台湾師範大学地理学系(地理学部)で教鞭を執っている。研究分野は台湾の鉄道史、鉄道文化、台湾の航空史、戦争遺跡、アジア・オーストラリアモンスーンシステム、気候変動、台湾の気候、気象史、古蹟研究など幅広い分野にわたっている。文章や著作では批判的思考による論調が多いとされている。そのため代表作の「台灣鐵道印象」で扱った1990年代の台湾鉄路管理局についての批判的記述が多くの賛同を呼んだ。
国立台湾大学の鉄道研究サークル(台大火車社)設立人、およびNGO/NPO団体の中華民国鉄道文化協会[注釈 1]共同創設者であり、理事も務めたこともある。協会での活動を通じて鉄道文化、鉄道趣味の啓蒙や鉄道文化資産の保全に積極的に行っているほか、協会発行の定期鉄道雑誌「鐵道情報」で総編集長(繁体字: 總編輯)も歴任し、ライターとしても寄稿している。鉄道以外の交通分野も含めた広範な交通文化遺産の保護、啓蒙を目的とした台湾交通文化資産保存学会常務理事も務める[1]。
2019年10月より台北機廠鉄道博物館構想のために文化部が設立した国家鉄道博物館準備処の初代主任[2]。
目次
1 家系
2 生い立ちと鉄道趣味
3 学歴
4 経歴
5 著書一覧
5.1 鉄道関連
5.1.1 寄稿・共著
5.1.2 鉄道文化協会刊行物
5.1.3 政府刊行物
5.2 航空・気象学・地理学
5.3 その他
6 参考文献
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 関連項目
9 外部リンク
家系(中国語版)(1819 - 1899)の望族家系[3]。
騰雲は慈善事業にも熱心で、インフラ事業に資金提供を申し出たり、当時台南でしか行われていなかった科挙の試験会場として台北城付近の土地を提供したため、1887年に当時の台湾巡撫である劉銘伝がその功績を称えるべく敷地内に牌坊を建立した。1905年に牌坊は新公園(現在の二二八和平公園)に移された。「急公好義坊(中国語版)」も参照
曾祖父で騰雲の孫にあたる以南(中国語版)(1871年 - 1927年)[4]は弁務署(地方行政単位)の参事、台北庁参事、淡水街街長(1920-1924年、現在の淡水区長に相当)などを歴任した実業家、詩人。
祖父の長庚(中国語版)(1893年 - 1966年)[4]は日本統治時代からの医師。学生時代は台湾総督府国語学校で岡本要八郎に師事、その後医学生として15歳時に日本へ留学、京都に住み込みながら府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)を卒業、東京帝国大学で講師を務め、眼科学博士課程を修了。台湾に戻ってからは淡水区に住居として達観楼(現在の淡水紅楼(中国語版))を構え、戦前戦後にわたって台北の大稲?地区円環付近に達観眼科を開業、戦後は台北市医師公会理事なども歴任していた。当時発見された北投石の保有者でもあった[5][6]。北投公園内に建てられていた恩師岡本の石碑「岡本翁頌コ碑」が戦後行方不明になり、再発見された際は診療所内で一時保管していた。診療所の改築に伴い北投善光寺に正式に移設することになり1963年3月29日にて除幕式を迎えた[7][8]。長庚は妻との間に致文の父を含む6男4女をもうけた[9]。実弟の小児科医だった我鈞は同じく大阪医科大出身で[9]、致文の大叔父にあたる。
致文の叔父の一人である洪祖仁は[6][10]、日本の「レイル」誌31号に「台湾に渡った4100形」という記事を寄稿したり[11]、戒厳令下の鉄道写真(廃止前の新店線や淡水線を含む)を撮影するなどの熱心な鉄道研究家であるとともに[12][13][14]、園芸家[15]。
他の叔父である祖恩は国立台湾大学医学系卒業後に達観眼科を継いだ[9]。