この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆
をお願いします。(2020年5月).mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}津野田(つのだ) 是重(これしげ)
生誕1873年11月25日
大日本帝国・熊本県
死没1930年9月2日
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1895年 - 1919年
兵科歩兵科
最終階級 陸軍少将
戦闘日露戦争
除隊後立憲政友会所属の衆議院議員
墓所多磨霊園
テンプレートを表示
津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月25日 - 1930年(昭和5年)9月2日)は、大日本帝国陸軍の軍人、政治家。熊本県出身。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 熊本藩士、陸軍大尉・津野田是秋の長男として生まれる。中学済々黌、陸軍幼年学校を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(第6期)歩兵科を首席卒業。同年5月、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第1連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業。 1901年(明治34年)6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年(明治37年)5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。旅順攻囲戦から奉天会戦まで戦った。1905年(明治38年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。 1906年(明治39年)2月、フランス駐在となり、参謀本部付(フランス出張)、陸大教官、近衛歩兵第3連隊大隊長を歴任し、1911年(明治44年)1月、陸軍歩兵中佐に進級。1913年(大正2年)1月、奈良連隊区司令官に補され、1915年(大正4年)4月、陸軍歩兵大佐に進級。同年8月、歩兵第11連隊長に転じた。1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級すると同時に待命、同年8月、予備役に編入される。 予備役編入後、衆議院議員に政友会から立候補し当選、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで勤めている。
経歴
栄典
1895年(明治28年)11月15日 - 正八位[1]
1897年(明治30年)12月15日 - 従七位[2]
親族
子 津野田忠重(作家)・津野田知重(陸軍軍人)・津野田和重(日本科学技術振興財団事務局長)
後妻 津野田菊以(小坂善之助の娘)
義父 高島鞆之助(陸軍中将、先妻の父)
著書
『戦後の欧米 - 踏破十有七国』博文館、1920年。
『斜陽と鉄血』偕行社、1926年。
『軍服の聖者』信毎出版部、1927年。
脚注^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
^ 『官報』第4341号「叙任及辞令」1897年12月18日。
関連項目
アナトーリイ・ステッセリ
イアン・ハミルトン(en:Ian_Standish_Monteith_Hamilton
参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
先代
白川健次郎歩兵第11連隊長
第15代:1915年8月10日 - 1919年4月1日次代
本庄繁
典拠管理データベース
全般
ISNI
VIAF
WorldCat
国立図書館
アメリカ
日本