津田沼
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津田沼
町丁
津田沼駅南口側
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日本
都道府県 千葉県
市町村 習志野市
人口(2017年(平成29年)10月31日現在)[1]
 ? 合計15,766人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号275-0016[2]
市外局番047[3]
ナンバープレート習志野

津田沼(つだぬま)は、千葉県習志野市の一地名である。千葉県内では千葉中央船橋などと並ぶ関東地方有数の繁華街を形成している。
概要

習志野市が町村合併によって成立した際、中核となった前身自治体が当時の千葉郡津田沼町で、今日習志野市の津田沼地区(旧久々田村)にその名を残す。ちなみに「千葉県習志野市津田沼」の現行行政地名は津田沼一丁目から津田沼七丁目、郵便番号は275-0016である[2]が、単に「津田沼」と呼称した場合、同駅北口商店街の一部を構成する船橋市前原地区や南口の谷津・奏の杜地区を含んだ「(概ね)津田沼駅周辺の地域」を指すことが多く、最寄駅が津田沼駅になるか、それしかない船橋市の三山から習志野、習志野市東習志野にかけた京成バス三山車庫バス停が最寄になる一帯にまで「津田沼」の名称が付いたマンション群が存在し、同様に、袖ヶ浦、鷺沼、秋津、芝園などにも「津田沼」の名称が付いたものがいくつか存在し、前述の地域も一部が広義の「津田沼」になることがある。また、津田沼自体が習志野市のかなり北に位置し、殆どが船橋市との境界近くに属しており、同市と共存している箇所も存在しているため、「津田沼」と呼ばれる全域が習志野市に属しているとは限らず、その中に船橋市に属している部分が多分に含まれている。
行政区画の変遷

1889年4月1日 - 町村制施行にともなう明治の大合併により、千葉郡北西部の谷津村・久々田村・鷺沼村・藤崎村・大久保新田が合併して千葉郡津田沼村が発足(谷「津」・久々「田」・鷺「沼」の合成地名[4])。旧村の区域により、谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保の各大字を編成する。

1903年6月3日 - 町制を施行し、千葉郡津田沼町となる。

1954年8月1日 - 同年7月6日千葉市へ編入された旧千葉郡幕張町の区域のうち実籾・愛宕・安生津・長作・天戸および馬加(まくわり)のうち屋敷台を編入。千葉郡習志野町と改称し、即日市制を施行して習志野市となる。その際、従来の大字久々田の区域を以って津田沼町を編成する。

歴史京成津田沼駅周辺(昭和30年代)戦前、津田沼駅付近にあった鉄道第二連隊。斜めに走る総武本線をはさんだ手前(南側)は連隊本部などで現在の千葉工業大学ほか。奥(北側)は工場などで現在の新京成電鉄新津田沼駅のほか、整備工場は戦後京成電鉄の津田沼第二工場や千葉県立千葉工業高等学校などに利用された。

この地名は1889年明治22年)に町村制施行に伴い谷津村、久々田(読み方くくだ、くぐた)村、鷺沼村、藤崎村、大久保新田の旧来からの5ヶ村が合併したことに由来し、中核となった谷津、久々田、鷺沼の3ヶ村から一文字ずつ取ったものである[5]。これによって津田沼町の前身の津田沼村が成立した。これらの前身5ヶ村は、下総台地に古くから成立した多くの村落と同様に、下総台地に発達した樹枝状の浸食谷、すなわち谷津田の谷底を水田として開発して成立したものであった。谷津村、鷺沼村はそれぞれ一つの小規模な谷津田を単位としており[6]、久々田村は菊田川河谷に形成された谷津田の下流部に、藤崎村はその中流部に成立した村であった。菊田川河谷の最上流部に成立した村は田喜野井新田であったが、これは明治時代の合併で二宮村となり、その後船橋市に編入されている。最後に大久保新田であるが、これは今日千葉市の幕張の中核となった馬加村と同じ浜田川河谷の最上流部に形成された村であった。

伝統的にそれぞれの村においては谷津田の水田における稲作と、それを取り巻く台地の縁辺部の畑における畑作を組み合わせた農業が営まれ、さらに東京湾に発達した干潟では、船橋漁民の独占的な魚漁が行われたため、専業の漁業は発達しなかったが、農業の片手間の潮干狩り的な貝漁が行われ、ハマグリアサリなどを産した。海岸には下総台地の縁辺部が迫っており海食崖を成し、その足元の海岸線との間の狭い平地には房総往還=千葉街道(今日の国道14号)が通っていた。ここに小規模な宿場も形成されていたことが、久々田村の小字に浜宿、鷺沼村には上宿と下宿があったことから知られる。

近代になると、久々田地区は北総内陸部と江戸内湾の物資の集散地として栄え、薪炭・肥料・米穀などを扱う商店が軒を連ねた。1921年大正10年)、京成電鉄の開通に伴い、京成津田沼駅ができると、駅から海岸に至る商店街が発展し久々田地区の市街地化が進んだ。また、大久保新田は隣接する習志野原陸軍施設との結びつきを強め、現在の京成大久保駅の北側で市街地化が進行した。津田沼駅も習志野原への玄関となり、駅前商店街が形成されたがその殆どが隣接する二宮町(現船橋市)に属する[7]

しかし、1907年(明治40年)に駅に隣接する谷津・久々田地区北部に鉄道連隊が転営し、1918年大正7年)に鉄道第二連隊となると「津田沼」は鉄道連隊の町として知られるようになった。一方谷津の地先干潟では塩田開発が行われたが、大正期の台風被害で操業停止となり、跡地に遊園地谷津遊園)が成立し、久々田、鷺沼の地先干潟の潮干狩り・海水浴とともに東京からの行楽地として有名になっていったほか、京成線の谷津遊園駅(から花輪駅にかけて)の北側台地は、療養地、別荘地として開発が進んだ。また地盤のしっかりした砂質干潟は日本の黎明期の航空産業の滑走路としても利用され、鷺沼の海岸沿いに伊藤音次郎伊藤飛行機研究所など、飛行機やその関連部品の工場やパイロットや整備士を養成する学校などが立ち並んだ(移転元の稲毛海岸も含めて、いわゆる本来の「袖ヶ浦」で、当海岸埋立地に残る習志野市袖ヶ浦の名はそこに由来する)。

谷津の塩田跡地のうち干潟の部分は、昭和放水路計画のため大蔵省の所有地となったため、1960年代以降の千葉県企業庁による埋め立てを免れ、今日の鳥獣保護区谷津干潟成立の伏線となった。


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