津田恒実
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津田 恒美基本情報
国籍 日本
出身地山口県都濃郡南陽町(現:周南市
生年月日 (1960-08-01) 1960年8月1日
没年月日 (1993-07-20) 1993年7月20日(32歳没)
身長
体重181 cm
79 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1981年 ドラフト1位
初出場1982年4月10日
最終出場1991年4月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


山口県立南陽工業高等学校

協和?酵

広島東洋カープ (1982 - 1991)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2012年
得票率75.1%
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

津田 恒実(つだ つねみ、1960年8月1日 - 1993年7月20日)は、山口県都濃郡南陽町(後に新南陽市を経て、現:周南市)出身のプロ野球選手投手)。右投右打。愛称は「ツネ」「炎のストッパー」。旧名「恒美」(読み同じ)。
経歴
生誕からアマチュア時代

山口県都濃郡南陽町(現:周南市)の山間部・和田地区(旧和田村)出身[1]南陽工高では、1年時からエース投手として活躍していた。

1978年第50回選抜高等学校野球大会に出場、準々決勝に進むが福井商に敗退[2]。同年の第60回全国高等学校野球選手権大会では2回戦まで駒を進めるが天理高に0-1で惜敗[3]

卒業後は防府市に本拠を置いていた社会人野球協和発酵(現:協和キリン)に入社。

1981年都市対抗電電中国の補強選手として出場。1回戦で優勝候補の富士重工業を抑え注目を浴びる。しかし2回戦ではリッカー中西清起と投げ合い敗退した[4]。同年の日本選手権では、協和発酵のエースとして2勝をあげ準々決勝に進出するが、この大会に優勝した富士重工業の向田佳元との投手戦の末に惜敗。都市対抗の仇を討たれた形になった。
プロ入り

同年のドラフト会議広島東洋カープに1位指名され入団。

1982年に先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝く。しかし2年目の後半戦以降は、ルーズショルダー[注 1] や中指の血行障害などに悩まされ登板機会が激減した。その後、血行障害を治すため世界初となる中指の靭帯を摘出する手術を受ける。

1985年に「恒美」から「恒実」へと改名。

1986年に抑え投手として復活し、前半戦を防御率0点台で折り返す。後半戦からは調子を落としたものの、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献、シーズン終了後にカムバック賞を獲得した。

1987年にも防御率1点台を残す活躍を見せた。

1988年は肩痛などが遠因してリリーフ失敗を繰り返すなど9敗を喫した。

1989年に防御率1.63、12勝5敗28セーブを挙げる活躍で最優秀救援投手ファイアマン賞に輝き、復活した。闘志をむき出しに最速153km/h6月28日にマーク)の剛速球と縦横の鋭いカーブを武器に相手打者に敢然と立ち向かう姿は、「炎のストッパー」と形容された。
闘病と死去

1990年、4月に右肩を故障、さらに8月には左膝靭帯を損傷するなど僅か4試合の登板に終わり、同年のシーズン終了後から頭痛をはじめとする身体の変調を訴えるようになる。

1991年、前年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎え、4月14日に無理を押して広島市民球場(当時)で行われた読売ジャイアンツ戦で、先発した北別府学の後を受けて1点リードの8回表に津田が登板するが、無死二塁・三塁のピンチを招き、原辰徳に同点適時打を打たれるなど大乱調のためわずか9球で降板となり、敗戦投手となる。これが津田の生涯最後の登板となった[5][6]

津田は普通の頭痛だと思って放置したものの長らく治まらなかったこともあり、この試合の翌日、広島大学病院に検査入院。精密検査の結果、手術で摘出できない位置に悪性の脳腫瘍があることが判明した。自宅や実家での療養を経て済生会福岡総合病院福岡県福岡市中央区)へ転院し、闘病生活へ入る。選手としては5月20日に準支配下登録となった後退団届を提出し、11月6日付で受理[7]。津田本人は病名の告知を受けていたが、球団は周囲の動揺を避けるため本当の病名を伏せ「水頭症のため引退」と発表した。

それから一時は奇跡的な回復を見せ、退院後は福岡市内に在住しながら現役復帰に向けたトレーニングも行うようになった。1992年6月頃を境に再び病状が悪化し、熊本県八代市にあった夫人の実家に身を寄せた後8月20日に済生会福岡総合病院へ再入院。1993年7月20日14時45分、津田は同病院において32歳の短い人生を閉じた[7]
没後功績を讃える顕彰板
(通称「津田プレート」)

津田の没後、1994年から7回忌の1999年まで津田の背番号14にちなんだ7月14日に津田基金の運営により、「津田メモリアルデー」が開催された。その初年度(1994年7月14日)には初代の広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」の文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(津田プレート)が設置された。同球場に設置された個人の記念碑は、連続試合出場記録を樹立した衣笠祥雄に次いで2人目である。後日、大野豊ら広島の選手は、試合に出場する時必ずこのプレートに触れていくというエピソードが『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』内で紹介された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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