津田左右吉
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津田 左右吉
人物情報
生誕 (1873-10-03) 1873年10月3日
日本岐阜県加茂郡栃井村
(現・美濃加茂市下米田町)
死没 (1961-12-04) 1961年12月4日(88歳没)
日本東京都武蔵野市
国籍 日本
出身校東京専門学校
学問
時代大正昭和
研究分野東洋史学
東洋哲学
研究機関早稲田大学
主な業績上代史と東洋史の研究
主要な作品『文学に現はれたる我が国民思想の?究』
『古事記及び日本書紀の研究』
『神代史の研究』
『日本上代史研究』
『上代日本の社会及思想』など
影響を受けた人物白鳥庫吉
影響を与えた人物家永三郎
主な受賞歴朝日賞(1960年)
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津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本歴史学者思想史家[1]早稲田大学文学部教授を歴任。記紀史料批判の観点から研究したことで知られ[注 1]、日本における実証史学の発展に大きく貢献した。1947年帝国学士院会員選出。1949年文化勲章受章。従三位勲一等
概要

津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを学術的に解明した点である。

1919年の「古事記及び日本書紀の新研究」、1924年の「神代史の研究」が代表成果作である。

津田は記紀神話から神武天皇欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。

これらの部分は朝廷官人の政治的目的による造作の所産であり、記紀神話は皇室が国民を支配するという思想を前提に、それを物語として展開していったもので、神武東征もその一部であるとした。また、第23代天皇顕宗天皇、第24代仁賢天皇らの発見物語も典型的な貴種流離譚であって実在しないとしている。発見譚に関わった第22代清寧天皇も、第24代仁賢天皇の皇子の第25代武烈天皇も実在しないと主張した。

津田の説は、戦後ながらく通説として扱われて来たが、考古学の進歩などにより批判的に取り上げられる場合も多くなった。
生涯
生い立ち津田の生家。移築して津田左右吉博士記念館となっている。

1873年(明治6年)10月3日岐阜県加茂郡栃井村(現・美濃加茂市下米田町東栃井)に津田藤馬の長男として生まれる。津田家は尾張藩附家老である竹腰家の家臣で、明治維新の後に竹腰家より命じられて同地へ移住した[3]

1886年(明治19年)に文明小学校(美濃加茂市立下米田小学校)卒業。文明小学校では、士族の子として、校長の森達(もり とおる)から漢籍などの指導を受ける。小学校卒業後は名古屋の私塾を転々とした後、1821年に大谷派普通学校(現在の名古屋大谷高等学校)に入学したが、翌年に中退して故郷の東栃井に戻り、東京専門学校(後の早稲田大学)の校外生として講義録で学ぶ。

1890年(明治23年)に上京して、邦語政治科に編入。翌1891年(明治24年)、東京専門学校邦語政治科 (現在の早稲田大学政治経済学部卒業[4]
歴史学者として

東京専門学校卒業後、白鳥庫吉の指導を受けた。

1897年(明治30年)、千葉尋常中学校教員。校長は白鳥庫吉の文科大学の後輩、菊池謙二郎。就職に際し、白鳥が菊池の動静について津田に語っており、白鳥による菊池への推挙があった事と、白鳥の影響が判る。津田も菊池を高く評価している[5]

1901年、28歳で『新撰東洋史』を刊行。1908年まで旧制千葉中学校等で中学校教員を務めた。

1908年満鉄東京支社嘱託満鮮地理歴史調査室研究員となる。研究長は白鳥庫吉であった。満鉄調査部の満州朝鮮歴史地理調査部門には、他に松井等、稲葉岩吉池内宏らがいた[6]。津田はこの調査部で「渤海考」「勿吉考」の東洋史研究調査を行った[注 2]。同機関は、1914年に東京帝国大学文科大学に移管されるが、それまで勤務した。1913年(大正2年)には、岩波書店から『神代史の新しい研究』を刊行。

1917年には『文学に現われたる我が国民思想の研究』の第一巻を刊行し、1921年まで続刊した。

1918年(大正7年)、早稲田大学講師東洋史東洋哲学を教えた[1]。翌1919年、『古事記及び日本書紀の新研究』を発表。

1920年(大正9年)、早稲田大学法学部文学部教授

1924年(大正13年)、51歳で『神代史の研究』を発表。前著とともに、神武天皇以前の神代史を研究の対象にし、史料批判を行ったものである。


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