洞院家
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洞院家
鎌倉時代中期 - 1476年文明8年))
不明だが、左三つ巴説あり
本姓藤原北家閑院流西園寺庶流
家祖洞院実雄
種別公家清華家
出身地山城国
主な根拠地山城国
丹後国
著名な人物洞院実雄
洞院公賢
洞院実世
洞院公定
洞院実熙
支流、分家小倉家羽林家
正親町家羽林家
凡例 / Category:日本の氏族

洞院家(とういんけ)は、清華家家格を有する公家藤原北家閑院流西園寺家庶流西園寺公経の男子実雄を家祖とし、鎌倉時代中期から室町時代中期にかけて存続した。

分家に羽林家家格を有し、明治時代華族に列した小倉家正親町家がある。

現在まで存続している桓武平氏高棟王流嫡流の『西洞院家』とは、公家同士である点以外に共通点はなく、全く別の流れを持つ家である。
概要

家祖実雄後嵯峨天皇のもとで左大臣に到達、後宇多伏見天皇外祖父として権勢を誇る。大覚寺統持明院統双方の国母を出したことから、歴代当主が大臣に任じられるなど朝廷で重んじられ、また有職故実に明るい博識な家柄として多くの典籍を蓄積していた。中でも4代公賢は公事に練達し、『皇代暦』『拾芥抄』『魚魯愚抄』など数々の故実書を著した他、南北朝時代の重要史料とされる日記園太暦』の記主であり、南北両朝より信任を得て太政大臣に至っている。

公賢の没後、その家門の継承について、南朝方の実守北朝方の実夏との間で争われたが、室町幕府からの口入を得た6代公定のもとに統一された。なお、公定は『尊卑分脈』の編者、8代満季は『本朝皇胤紹運録』の編者として知られる。9代実熙は公賢らの著述を書写・増補するとともに自らも『名目鈔』を編み、同家の蔵書が公事の手引として幅広い関心を得た他、後花園天皇灌頂を伝授したという。

しかし、10代公数は伝来の家記・文書類を売却して文明8年(1476年出家し、洞院家は絶家した。同じ閑院流の三条実敦は、『尊卑分脈』の末尾に、公数は「放埒」の人であるためにこのような行為をしたのであるとし、「不知法名」、「可洗耳(耳を洗うべし、このようなことは聞きたくもないという意味)」と記している。

ただし、9代実熙の当時には既に経済的に困窮して「番々の輩の如く成り下がる事はできない」と嘆かせる状況であったことから、公数の出家は清華家としての家格を維持できる見通しを失った事で没落よりも自ら絶家させる選択をしたとする指摘もある[1][2]

累代の文書を失うことは家の存続を左右することでもあり、数年後、本家筋の西園寺実遠が子の公連をして洞院家を再興させたが、公連もまた30歳で出家し、その甥の西園寺実賢(西園寺公藤の子)が継承するも、消息不明となり、有名無実に終わった[1]

園太暦』を書写した甘露寺親長の奥書には「申断絶一流之由、文書記六売却方々、其内也。(洞院家を断絶させるために売却した)」とあり、公数が公連に家を継がせたくなかった意思があったとされる。また、洞院家の所領に関する文書については公連に継承されたものの、その所領はすでに武士に横領されており、収入を見込めるものではなかった[1]
歴代当主
洞院実雄1219年 - 1273年

洞院公守1249年 - 1317年

洞院実泰1269年 - 1327年

洞院公賢1291年 - 1360年

洞院実夏1315年 - 1367年

洞院公定1340年 - 1399年

洞院実信(1357年 - 1412年


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