洞院実守
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 凡例洞院実守
時代鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕正和3年(1314年
死没応安5年/文中元年4月11日1372年5月14日
別名加茂大納言
官位正二位大納言北朝
右大臣南朝
主君後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇崇光天皇後村上天皇後光厳天皇後円融天皇
氏族洞院家
父母父:洞院実泰、母: 高倉康子(高倉永康の娘)
養父:洞院公賢
兄弟公賢、慈厳、公敏、守子、公泰、実守
子公信、公益
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洞院 実守(とういん さねもり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿左大臣洞院実泰の四男。庶兄公賢の養子となり、父から家門継承を期待されるも達せられず、南北朝間を往来した。官位正二位大納言北朝)、右大臣南朝)。
経歴

元亨4年(1324年)に11歳で叙爵侍従左近衛少将春宮権亮・左近衛中将・蔵人頭を経て、嘉暦3年(1328年)9月参議として公卿に列し、11月義父・公賢から賞を譲られて従三位に叙される。公賢は洞院家の後継者は父・実泰の意向に従って実守を後継者としていた[1]。次いで元徳2年(1330年)4月正三位元弘2年/元徳4年(1332年)3月権中納言と進むも、翌正慶2年/元弘3年(1333年)5月光厳天皇廃位に伴って官職を止められた[2]建武政権下の建武2年(1335年)正月従二位に叙されたが、南北朝分立後は北朝に仕え、建武4年/延元2年(1337年)12月再び権中納言、建武5年/延元3年(1338年)正月正二位暦応2年/延元4年(1339年)12月権大納言と累進。貞和4年/正平3年(1348年)10月に辞任し、観応元年/正平5年(1350年)11月本座を許されている。

観応2年/正平6年(1351年)12月正平一統の際には南朝へ参候し権中納言に貶されるが、文和2年/正平8年(1353年)6月そのまま南朝の行宮がある賀名生奈良県五條市)に赴いた。以降は南朝公卿として累進し、右近衛大将内大臣を歴任する。

一方、京都の洞院家では実守の南朝参候を機に義父・公賢は後継者を実子の実夏に変更する手続を行うが、やがて実夏と不仲[3]になり、延文4年/正平14年(1359年)4月に公賢が出家すると実守の北朝帰参を望むようになった。このため、実守は同年12月に密かに京都に戻り[4]、公賢から家督譲渡の意向を示された[5]

延文5年/正平15年(1360年)義父・公賢が薨じると、家門の継承をめぐって甥・実夏と争った。同年6月、後光厳天皇は実夏・実守による家領の分割を命じるが、南朝に仕えていた実守の家督継承に反対する室町幕府執奏もあり、9月には実夏への家門継承が決定される[6]。家門争いに敗れた実守は抵抗を続けているが、康安元年/正平16年(1361年)2月には勅命によって実守が持っていた洞院家家督の象徴である文庫の印鎰を没収[7]され、同年12月の南朝軍入京による後光厳天皇の近江行幸への段階[8]では既に再度南朝へ参候し、次いで右大臣に栄達した模様である。ところが、貞治6年/正平22年(1367年)6月実夏が薨じると、家門を継承せんとして8月北朝へ帰参。洞院家門をめぐる相論が再度紛糾したため、室町幕府からの執奏に基づき、最終的に応安4年/建徳2年(1371年)実夏の子の公定に家門継承を認める勅裁が下された。家門のために南北朝間を往来した実守の無節操さにつき、『愚管記』の記主近衛道嗣は「頗非忠貞之儀乎」と呆れている。

帰参した北朝では、応安3年/正平25年(1370年)3月大納言に任じられた[9]が、応安5年/文中元年(1372年4月11日に薨去。死因は疫癘(伝染病)という。
逸話

雅楽に優れ、叔父の実明から琵琶を、母の康子から秦箏を相承した他、「万秋楽」の秘説を崇光上皇に授けた。また、漢詩を得手としていたようである。

吉野拾遺』下に、実守は鼻が大層高かったために、紀伊国の田舎武士から「人にはあらじ。天狗のたぐひにてあるらむ」と恐れられたという話が見える。

正平22年/貞治6年(1367年)9月北朝に帰参して間もない実守の許を大外記中原師茂が訪れ、南北朝合体の議について談合したという(『師守記』)。

系譜

父:
洞院実泰(1270-1327)

母:高倉康子(?-1349) - 高倉永康女

義父:洞院公賢(1291-1360)

妻:不詳

男子:洞院公信(?-?) - 従五位上侍従北朝)、大納言南朝)。室は洞院公泰

男子:洞院公益(?-?) - 左少将


脚注^ 『後深心院関白記』応安元年3月6日条
^ 後醍醐天皇からは持明院統にも通じている者として警戒されたらしく、元弘の乱に先立って参議を辞任し、一連の倒幕運動には加担しなかった。
^ 実子への洞院家継承は公賢の望みではあったが、やがて南北朝間の中立維持を目論む公賢とそれは不可能であるとして北朝(後光厳天皇)参候に動いた実夏の意見対立をきっかけとし、延文4年の京官除目では実夏が公賢(=洞院家)の家説を批判する言動にまで及んだ。実夏も実守も当主・公賢の意向に従わない後継者であったが、公賢が最も重要視した洞院家の故実・家説の担い手としては実守の方が望まれるようになった(松永、2013年、P242-244)。
^ 『園太暦』延文4年12月21日条
^ 『後深心院関白記』応安元年3月6日条。なお、公賢が家督を譲った相手を正親町実綱とする説もあるが、その説では公賢死後の家督争いの際に実守が既に洞院家の文庫の印鎰を持っていたことが説明つかなくなってしまう(松永、2013年、P243-244)
^ 後光厳天皇は洞院家の故実の継承問題に関心が強く公賢と同様に実守に期待する部分があった。同時に実夏は3度にわたる南朝軍の京都占領に伴う天皇の行幸(京都脱出)に同行しておりその忠節も否定することが出来ず、室町幕府は一貫して北朝を支持してきた実夏の洞院家継承に協力的であった(松永、2012年、P244-246)。
^ 『後深心院関白記』康安元年2月2日条
^ 後光厳天皇は実夏の“忠節”と実守の“家説”の両方を重んじる立場から両者共存を求めて家領分割を命じたが、近江滞在中の貞治元年/正平17年3月3日に洞院家の家領全てが実夏に安堵されていることから、実守がこの時には南朝方にあったことが推定される(松永、2013年、P245-246)。


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