凡例洞院実世
洞院実世(『前賢故実』より)
時代鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕延慶元年(1308年)
死没正平13年/延文3年8月19日(1358年9月22日)
別名与喜左大臣?
官位従一位、左大臣(南朝)
主君花園天皇→後醍醐天皇→後村上天皇
氏族洞院家
父母父:洞院公賢、母:家女房
兄弟実世、実夏、守賢、慈昭、定世、公世、徳大寺公清室、綸子、吉子、恵林、徽安門院東御方、西園寺実俊室、久良親王養女
養兄弟:阿野廉子、実守
妻徳大寺実孝の娘
子公行
洞院 実世(とういん さねよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣・洞院公賢の子にして、実夏の庶兄に当たる。官位は従一位・左大臣。北畠親房・四条隆資・二条師基と共に南朝の重鎮として政務を指導した公家大将である。
経歴[ソースを編集]
母の身分が低かったために家門を継ぐ嫡子になれず、父・公賢とは表向き義絶状態にあったらしい。後醍醐天皇の信任を得て、日野資朝や俊基らが開いた無礼講にも参加する[1]など、早くから倒幕運動において指導的役割を務めた。嘉暦2年(1327年)7月蔵人に補され、同3年(1328年)11月参議として公卿に列する。元徳2年(1330年)権中納言に転じ、左衛門督・検非違使別当を兼ねた。元弘元年(1331年)元弘の乱に参与したために六波羅探題に捕まり、間もなく官職を解かれたが、元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府の意向によって父・公賢邸預かりの謹慎処分で済んでいる。
鎌倉幕府が滅んで光厳天皇が廃位されると本職に復し、後醍醐の建武政権下では、恩賞方上卿や雑訴決断所寄人などの要職にあり、政権の中枢幹部として威を振るう。建武2年(1335年)鎌倉の足利尊氏が反旗を翻したため、搦手軍としてショウ王と共に東山道を下ったが、12月に新田義貞率いる東海道軍の敗戦(箱根・竹ノ下の戦い)を受けて引き返した。建武3年(1336年)1月北畠顕家率いる奥州軍と合流して足利方を攻撃し、尊氏を京都から追放したものの、5月に尊氏が再上洛して京都を占領した際には、後醍醐に供奉して比叡山に難を避けている。5ヶ月に及ぶ攻防戦の末に後醍醐の下山が決定すると、新田義貞・脇屋義助らと共に東宮恒良親王を奉じて北陸へ落ち、越前国金ヶ崎城に入った。恒良を天皇として推戴する北陸朝廷では、実世は伝奏となって「綸旨」を発給したが、足利方の兵糧攻めを受けて、延元2年/建武4年(1337年)3月の落城寸前に義貞らと杣山城へ脱出。延元4年/暦応2年(1339年)美濃国根尾城から尾張国羽豆崎城に赴き、伊勢国・伊賀国を経て吉野行宮(南朝)に入ったという。間もなく権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねる。
後村上天皇即位後は、四条隆資と共に伝奏となって幼帝を支え、北畠親房に次ぐ権力を握った。さらには南朝の重要機関である武者所の職員として、軍事や所領関係の事務にも携わっていたらしい。事実、正平4年/貞和5年(1349年)秋、伊賀に入って在地の南朝方勢力を編成し[2]、正平6年/観応2年(1351年)頃には勅使として九州下向を命じられる[3]など、縦横に活動している。正平一統が成ると後村上の京都還幸を沙汰し、隆資と共同で京都を統治するのではないかとの風聞も立った[4]。正平7年/観応3年(1352年)閏2月後村上に供奉して男山[要曖昧さ回避]に進出したが、5月八幡の戦いの敗戦を受けて南軍は総崩れとなり、子(不詳)と共に河内国東条へ脱出した。