凡例洞院公守
洞院公守像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代鎌倉時代中期 - 後期
生誕建長元年(1249年)
死没文保元年7月10日(1317年8月17日)
改名公守→素元(法名)
別名号:山本相国、正親町
官位従一位、太政大臣
主君後伏見天皇→亀山天皇 →後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇
氏族洞院家
父母父:洞院実雄、母:栄子(公審の娘)
兄弟公宗、小倉公雄、守恵、佶子、?子、公守、季子、?子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、西園寺公蔭
洞院 公守(とういん きんもり)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。左大臣・洞院実雄の子。官位は従一位・太政大臣。亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇の外叔父にあたる。 建長5年(1253年)従五位下に叙位。翌建長6年(1254年)従五位上に昇叙。建長7年(1255年)侍従に任じられる。正嘉元年(1257年)正五位下に進む。 正嘉2年12月(1259年1月)右近衛少将に任じられる。翌年従四位上に進み、正元2年(1260年)右近衛中将、文応2年(1261年)正四位下・讃岐介に叙任。中宮権亮を兼ねて姉の佶子に仕える。同年8月に佶子が亀山天皇の皇后となると皇后宮権亮に任じられた。左近衛中将を経て、文永3年(1266年)能登権介を兼ねる。文永4年(1267年)に従三位に昇叙して公卿に列した。 文永7年(1270年)に正三位・権中納言となる。文永8年(1271年)には異国(蒙古と高麗)の降伏を祷るために伊勢に遣わされている[1]。皇后宮権大夫を経て、文永9年(1272年)従二位、建治4年(1278年)正二位に昇叙し、弘安6年(1283年)権大納言に任じられる。正応3年(1290年)左近衛大将に任じられ、内大臣となるが、正応4年(1291年)に両職を辞した。永仁4年(1296年)には従一位に至る。
経歴
文保元年(1317年)7月10日、薨去。享年69。山本相国(やまもと しょうごく)と呼ばれ、十三代集などには山本入道前太政大臣(やまもと にゅうどう さきの だじょうだいじん)の名で歌が収録されている。また正親町(おおぎまち)を号し、次男の実明が分家して正親町家を興している。 以下日付はいずれも旧暦による。
官途
建長5年(1253年)- 1月5日 叙従五位下
建長6年(1254年)- 4月7日 昇叙従五位上
建長7年(1255年)- 2月13日 任侍従
正嘉元年(1257年)- 3月29日 昇叙正五位下(父実雄卿建長七年亀山殿造宮賞譲)
正嘉2年(1258年)- 12月14日 任右近衛少将
正嘉3年(1259年)- 3月8日 昇叙従四位下(朝覲行幸 大宮院御給)、改元して正元元年11月21日 昇叙従四位上(御即位 東宮御給)
正元2年(1260年)- 3月29日 転任右近衛中将
文応2年/弘長元年(1261年)- 1月5日 昇叙正四位下、兼讃岐介(院御給)、1月8日 兼中宮権亮、2月7日 聴禁色、改元して弘長元年8月20日 兼皇后宮権亮
文永2年(1265年)- 9月4日 転任左近衛中将
文永3年(1266年)- 2月1日 兼能登権介
文永4年(1267年)- 2月1日 昇叙従三位、左近衛中将如元
文永7年(1270年)- 1月21日 任権中納言、3月11日 聴帯剣、9月4日 昇叙正三位
文永8年(1271年)- 3月8日 兼皇后宮権大夫
文永9年(1272年)- 1月5日 昇叙従二位(院当年御給)、8月9日 止皇后宮権大夫
文永10年(1273年)- 8月16日 服解(父)、11月21日 復任
建治4年(1278年)- 1月6日 昇叙正二位(新院当年御給)
弘安6年(1283年)- 3月28日 任権大納言
正応元年(1288年)- 10月27日 任大臣節会内弁
正応3年(1290年)- 7月21日 任左近衛大将、12月25日 任内大臣
正応4年(1291年)- ?月?日 辞左近衛大将、7月2日 上表(辞内大臣)
正応5年(1292年)10月?日 服解(母)
永仁4年(1296年)- 1月5日 昇叙従一位
永仁7年(1299年)- 6月2日 任太政大臣、10月13日 上表(辞太政大臣)
嘉元3年(1305年)- 6月4日 出家
文保元年(1317年)- 7月10日 薨去、享年69
系譜