洞爺丸
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洞爺丸

基本情報
船種車載客船
船籍 日本
所有者運輸省鉄道総局・日本国有鉄道
建造所三菱重工神戸造船所
姉妹船羊蹄丸(初代)摩周丸(初代)
大雪丸(初代)
信号符字JTAP(JBEA)[注釈 1]
経歴
起工1946年(昭和21年)9月17日[2]
進水1947年(昭和22年)3月26日[2]
竣工1947年(昭和22年)11月2日[2]
就航1947年(昭和22年)11月21日[2]
終航1954年(昭和29年)9月26日[2]
要目 (新造時)
総トン数3,898.03トン[3]
全長118.70m[3]
垂線間長113.20m[3]
型幅15.85m[3]
型深さ6.80m[3]
満載喫水4.90m[3]
ボイラー乾燃室円缶
6缶[4]
主機関三菱神戸式
1段減速歯車付衝動反動タービン
2台[4]
最大出力5,455軸馬力[5]
定格出力2,250軸馬力×2[4]
最大速力17.455ノット[5]
航海速力14.5ノット[6]
旅客定員932名[2]
乗組員128名[2]
車両搭載数ワム換算18両[6][2]
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洞爺丸(とうやまる)は、運輸省鉄道総局ならびに日本国有鉄道(国鉄)が青函航路で運航した車載客船である。

戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、当時の国鉄であった運輸省鉄道総局がGHQの許可を得て建造した車載客船4隻の第1船である。本船の同型船には羊蹄丸摩周丸大雪丸があり、これら4隻は洞爺丸型と呼ばれた。

1954年(昭和29年)9月26日洞爺丸台風による暴風と高波で転覆・沈没し、死者・行方不明者あわせて1,155名という、日本海難史上かつてない洞爺丸事件を起こした悲劇の船として、歴史に名を残すことになった。

本項では終戦前後から本船建造に至るまでの青函航路の概略についても記述する。
車載客船建造までの経緯
終戦前後の青函航路
特務艦、一般商船、他航路連絡船などを総動員

終戦1ヵ月前の1945年(昭和20年)7月14・15両日のアメリカ軍による空襲で、青函連絡船は12隻全船が稼働不能となった。このため、急遽7月17日から海軍特務艦で元日本郵船樺太航路の砕氷貨客船千歳丸(2,669総トン)を[注釈 2]、7月20日から同じく海軍特務艦で元大阪商船琉球航路貨客船浮島丸(4,730総トン)[注釈 3]を就航させ、7月23日からは、たまたま函館船渠で定期検査修繕中の稚泊連絡船 亜庭丸 (3,391総トン[8])を繰り上げ出場のうえ就航させた[注釈 4][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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