「洛陽」はこの項目へ転送されています。日本の京都の別称もしくは雅称については「洛中」を、小惑星については「洛陽 (小惑星)」をご覧ください。
中華人民共和国 河南省 洛陽市
上から時計回り: 龍門石窟、市の花の牡丹、竜門大橋、白馬寺上から時計回り: 龍門石窟、市の花の牡丹、竜門大橋、白馬寺
別称:洛
旧称:西亳、洛邑、?陽、神都
河南省中の洛陽市の位置河南省中の洛陽市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分 東経112度26分 / 北緯34.650度 東経112.433度 / 34.650; 112.433
洛陽市(らくようし、簡体字中国語: 洛?市、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Luoyang)は、中華人民共和国河南省西部に位置する地級市。
中国史上、しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。
晋隋唐の時代、西に金繽驕A中原に進撃する東に武庫があった。
998年あたりまで平安京左京のモデルのような受け取り方がなされた。 洛陽の南には洛水が流れており、これが地名の由来となっている。「陽」は「日当たりのいい場所」の意で、河谷の北側斜面などの南中した太陽と向かい合う土地を指す。つまり、山岳や丘陵の斜面では河谷とは逆に「陽」は南側斜面にあたる。 河南省西部にあり、黄河の中流にある。総面積は、15,208 平方キロメートルであり、区部の面積は 544 平方キロメートルである。黄河・洛河・伊河
地名の由来
地理
洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきり分かれ、冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は非常に暑く雨が集中して多いことである。秋には晴れて日照時間が長い。年平均気温は摂氏 14.7 度、年平均降水量は601.6 ミリメートルである。
北部の三門峡市が編入したり、独立したりを都度繰り返す。この三門峡市の北側に黄河が流れ、1960年に黄河を堰き止める形で三門峡ダムが建設された。
歴史 1 2 3 4 5a 5b A B 洛陽の都城の変遷。1:二里頭遺跡(夏代?)、2:殷代の偃師商城、3:周代の王城、4:漢魏代の洛陽城(外城は北魏による。)、5a:隋唐代の洛陽城と 5b:宮城、A:白馬寺、B:奉先寺
黄河支流の洛水流域はそれまで黄土高原を流れてきた黄河が華北平原に出る位置にある。つまり、黄土高原において重要な勢力を養ってきた黄河支流の渭水(周・秦)、汾水(晋)流域からの華北平原への出口に位置しており、なおかつ?山により黄河本流の氾濫からは遮られている。そのため、この地域一帯には新石器時代より重要な遺跡が残されている。洛河支流の澗河上流には仰韶文化の発見由来ともなった仰韶村遺跡があり、文化古典伝承の夏に相当するとも考えられている二里頭遺跡、殷初期の都城遺跡である偃師商城などが並んでいる。
洛陽の歴史は、周の成王の時代に殷を滅ぼした周の東方経営の拠点の下都として洛邑の都城が築かれて、王城、成周、東都と呼ばれたことに始まる。平王の時代、戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後世の長安)より都が移された。
こうした経緯から、中国古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた「長安」と華北平原の経済力と結びついた「洛陽」が対になって首都機能を担う形が出来上がっていった。
その後、後漢・三国魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて「洛陽」に都が置かれている。
漢代では、火徳とする漢王朝に「洛」字の水偏(サンズイ)が忌まれ、「?陽」に改名された。しかし、土徳を掲げる曹魏により元の洛陽に戻された。
また、唐朝を一時簒奪した女帝武則天の朝廷である武周(690年 - 705年)では神都と改名されて都となった。これも唐の復活により元の洛陽の名に戻された。
三国時代の呉から南朝の統治下で江南の開発が進み、華北平原と取って替わって穀倉地帯としての地位が向上した。隋の南北統一と大運河の建設により華北の政権を江南の生産力が支える形が確立された。洛陽は江南の物資を長安の軍事、政治と結びつける集積地として「東都」とも呼ばれて繁栄した。
しかし唐王朝の衰退・滅亡で渭水流域の軍事的政治的地位が凋落すると、江南の生産力を華北に移送する集積地としての地位はより東方の開封に取って代わられることとなった。
その後、五代十国時代を経て、建国された宋ではいよいよ開封が本格的な首都とされた。
さらに元代以降は、政治の中心がモンゴル高原東部の騎馬軍事力を背景とした北京に移り変わり、これを南京に集積された江南の富が支える形が確立して、洛陽の歴史的な首都機能は失われた。このため中国本土の中心地としての重要性こそ低下したが、河南地域の主要都市としての地位は現在まで受け継がれている。
明・清代には河南府の府治が設置され、中華民国が成立すると洛陽専区が設置されていた(1948年に設置された洛陽市は県級市であり、洛陽地区の管轄下に置かれた)。
1944年には大陸打通作戦により、日本軍に占領された。1956年に地級市としての洛陽市が成立している。
2000年にユネスコ世界遺産に登録された龍門洞窟は洛陽市郊外に位置している。これは493年(太和17年)、北魏が洛陽に遷都した時代に建築が始まった石窟寺院であり、中唐まで、およそ3万体の仏像が石窟の中に作られたものである。
また、洛陽は長安とともに2014年に世界遺産に登録されたシルクロードも構成している。洛陽の古い街並み洛陽城の外城の正門『定鼎門』