蘭学(らんがく、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:蘭󠄁學)は、江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学問・文化・技術の総称。
幕末の開国以後は世界各国と外交関係を築き、オランダに留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になった。初期は蛮学(「南蛮学」の意)、中期を「蘭学」、後期を「洋学」と名称が変わっていった経緯がある[1]。
歴史
江戸時代の国際関係詳細は「鎖国」を参照
1609年(慶長14年)、オランダ東インド会社はイギリス人の三浦按針の仲介により、長崎のオランダ平戸商館を通じた国際貿易を幕府から許可された[注釈 1]。同年に発生した朱印状偽造事件(岡本大八事件)をきっかけに、1612年、幕府は天領に禁教令を発し、カトリック信者であるポルトガルの宣教師やキリシタン大名らを国外追放に処し、また1614年には天領以外の藩領にも禁教を拡大し伴天連追放之文を発布、1616年には二港制限令
、1619年に再度禁教令を発し、本格的にカトリック信者を弾圧した。布教しないことを条件に貿易を認可されていたプロテスタントのオランダ人らは、カトリック信者らによる1637年の島原の乱の制圧を支援し、出島で貿易をしていたポルトガル人らが全滅したことで日本の国際貿易を独占することとなった。このことから幕府は1641年(寛永18年)、オランダ商館を平戸から出島に移転させた[2]。これにより、オランダ語の書籍が入手しうるものになった。 蘭学の先駆者としては、肥前国長崎生まれの西川如見がおり、1695年(元禄8年)、長崎で見聞したアジアなどの海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考
蘭学の先駆
徳川吉宗将軍は洋書の禁を緩め、青木昆陽と野呂元丈に蘭語習得を命じ、青木は「和蘭文訳」「和蘭文字略考」といったオランダ語の辞書や入門書を残し、野呂はレンベルト・ドドエンス(1517年 ? 1585年)やヨハネス・ヨンストン(1603年 ? 1675年)の図鑑の抄訳を著した。この二人は共に蘭学の先駆者と呼ばれ、のちに書かれた杉田玄白の『蘭学事始』においてもこの二人の功績が記されている。
解剖学・医学書籍の内容についてはオランダ独自のものというわけではなく、当時のプロシア(ドイツ)の書物がオランダ語に訳され、それが日本に入ってきていた。そのプロシアの書物もアンダルス(イベリア半島一帯のイスラム圏)の書物が訳されたもので、そのアラブの書物も中世「暗黒時代」にヨーロッパから散逸したギリシャ以来の書物に由来した。それをまた西欧が翻訳し直して、自然科学の基礎が復活したのだった。
プロイセン王国で1722年に発行された医師ヨハン・アダム・クルムスの Anatomische Tabellen の1734年の蘭訳本 Ontleedkundige Tafelen(解剖図譜)を主な底本として、1774年、前野良沢と杉田玄白により『解体新書』が発行された。
その後の1796年、蘭学者の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説が、蘭和辞書『ハルマ和解』(はるまわげ)を編纂刊行した。オランダ語の部分には当時は珍しい活版印刷が使用された。 蘭学興隆に伴い、幕府は天文方の高橋景保の建議を容れ、1811年に天文方に蛮書和解御用を設けて洋書を翻訳させたが、これは未完に終わった。 文政年間の1823年にはドイツ連邦からシーボルトが日本を訪れ、長崎の郊外に鳴滝塾を開き、高野長英や小関三英などの門下生を教えた。また1825年には薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーが来日し、シーボルトの下で働いた[3]。 また、1833年には蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』が完成している。 そうした中で1844年(天保15年)、オランダ国王の使節が軍船で長崎に来訪し、江戸幕府に親書と贈答品を送った。しかしその内容は「貴国の福祉を増進せんことを勧告す」というものであった[4]。
蘭学受難の時代