洋ラン
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この項目では、植物について説明しています。学生服の一種については「長ラン」をご覧ください。
代表的な洋ラン
カトレアの園芸品種さいたま市園芸植物園の洋蘭エリア

洋ラン(ようラン)は、鑑賞目的で栽培される、主として熱帯起源のラン科植物及びその交配品種のこと。その趣味が欧米経由で日本に入ったことから、この名がある。おおむね、大輪で派手な花をもってよしとする。
概要

ラン科の植物は花の美しいものが多く、特に熱帯域ではその種類も多く、美麗なものや不思議な形のものが多数知られている。それらを園芸の立場から洋ランという。野生から採集したものの他、交配などの品種改良も多く行われ、おびただしい数の品種が作られている。ラン科では属間雑種が出来る例も多いことから、人為的な属も多い。ただ、そのような採取のために野生種が絶滅に瀕する例もあったことから、現在では採集に制限がかけられるなどの保護策が講じられている。

栽培は普通は温室で行われるが、熱帯域では屋外で栽培される例も多いし、温帯であっても耐寒性の強い種は野外で維持できる例もあり、必ずしも温室は必須ではない。日本では、むしろ夏の暑さを避ける必要がある例もある。いずれにせよ、ラン科は特殊な菌根を持つこと、着生植物が多いことなど一般的な園芸植物とは違う面が多く、栽培には特殊な素材や鉢を用いるなど、独特な面が多い。

ヨーロッパにおけるラン栽培は、ほぼ18世紀に始まった。当時は温室などが普及しておらず、それを手にするものは少なかったが、やがて栽培技術の向上とともに広く親しまれるようになった。世界各地の熱帯から、新しい種が導入されるとともに、交配によって多くの園芸品種が作られた。19世紀にはアメリカにも導入され、ハワイで洋ラン栽培が一つの産業として定着するに至った。現在では、熱帯の各国で生産が行われている。

その後メリクロン法などの大量増殖の開発、密閉性がよく家庭内暖房の効いた住宅の普及、無菌播種法による交配品種改良の効率化などによって一般にも広まり、庶民にも普及した一つの園芸のジャンルとして定着している。洋ラン趣味は、元来は栽培をして花を咲かせて楽しむ、と言うものであったが、栽培と繁殖の技術の向上によって安定的な供給が可能となり、開花株や、あるいは切り花の生産販売が産業として成立するようになった。

なお、中国でははるかに古い時代から士大夫など教養人の高尚な趣味として、温帯地上性の小型のシンビディウム属のラン科植物を栽培することが行われ、突然変異個体の選抜による様々な品種が栽培されていた。それらは日本にも伝えられ、中国伝来及び日本に自生するシュンランカンランのような温帯性シンビディウム属のランに加え、フウランの変異個体の品種群である富貴蘭、及びセッコクの変異個体の品種群である長生蘭とともに東洋ランという違ったジャンルを形成している。なお、近年ではこれらをも洋ランの中に取り込むような動きもある。
歴史

洋ラン趣味は、ヨーロッパから始まったもので、特にイギリスがその発祥とされている[1]。このころ、世界各地の品物とともに多くの植物がヨーロッパに持ち込まれ、園芸用に栽培された。熱帯産のラン科植物も、様々なものがヨーロッパに持ち込まれた。

ヨーロッパに熱帯性のランが紹介されたのは、1731年で、西インド産の Bletia verecunda がイギリスに持ち込まれたのが初めてとされ、この種は翌年に開花を見た。1800年代にはバンダ[要曖昧さ回避]、デンドロビウムなどが紹介され、1823-1825年にはスタンホペアオンシジウムも導入された。この頃は温室も不完全であり、栽培法もわからない状態であったが、その後は暖房可能な温室も作られるようになり、19世紀半ばにはラン栽培に関する書籍が出版されるようになった。ミズゴケが栽培に用いられるようになったのも、この頃である。

交配品種の作出もこの頃に始まった。1853年にイギリスのヴィーチ商会の栽培主任であったドミニーはオナガエビネとツルランとの交雑を成功させ、1856年に初めて開花させた。この交配種はカランセ・ドミニーと命名された。これ以降多くの交配品種の作出が行われるようになり、1859年にはカトレヤでの種間交雑が、1863年にはレリアとカトレヤの間での属間交雑が行われた。これによって洋ラン栽培において扱われる品種の数がはるかに増大することとなり、情報の混乱も見られるようになった。これを防ぐためにラン商であったサンダー商会が統一したリスト作成を提唱、1946年にそれまでに知られた交配品に関する情報(両親、作出者など)を網羅したリストを作り上げた。それ以降のものについても追加リストの作成が行われ、1961年以降はこの事業が王立園芸協会に引き継がれ、サンダーズリストと呼称されている。ここに記録されている交配品種の数はすでに十万を超えるという[2]

アメリカでのラン栽培は1836年頃に始まる。1920年には、アメリカラン協会が設立された。

日本には明治の頃に持ち込まれた。明治22年(1889)に子爵福羽逸人がフランス留学から帰国時にシンビジウムやオンシジウムを持ち帰り、明治27年には新宿御苑に温室が建設されて本格的な洋ラン栽培が始まった[3]。当時の華族皇族の間で広まった。当初は株分けによる遅々とした増殖しかできず、栽培にも高価な温室が必要で上流階級の趣味か、せいぜい専門業者による高級切り花として販売されるに留まった。

産業としてのラン栽培はカリフォルニアやハワイに始まり、シンガポールやタイへと広がった。日本へは昭和30年代後半に導入された。沖縄ではデンファレ系の切り花栽培が1975年から急増し、産業として定着するにいたった[3]

現時点(200年代)において主生産品の位置にいるのはシンビディウム・ノビル系デンドロビウム、それに後発のデンファレ系と胡蝶蘭である。前2者が古くから出回っていたが、それらは開花時期が冬に限られ、そのため年末中心の生産と需要を持っていた。それに対して後2者は春から夏に開花し、そのために中元需要に対応することができるようになった。さらに、それらは栽培技術の進歩もあって周年出荷の形へ展開した。今のところ、この4つ以外に商業的に安定供給されているのはカトレア・パフィオペディルム、それにオンシジウムにミルトニアが少々といったところである[4]
技術革新と大衆化

長い間洋ラン栽培はきわめて高級な趣味と見なされてきた。理由としては特殊な技術や設備が必要であることもあるが、大量増殖がきわめて困難であった点が大きい。これには2つの面があり、一つは種子からの繁殖の困難さ、もう一つにはを増やすことの困難さがある。そのため、洋ランは長らく極端に高価だった。たとえば唐沢によると、彼が洋ランに手を染めた第二次世界大戦後の日本では、月給が一万円台の時にシンビディウムはバルブで四?五万、良品のカトレアは十万円であった由[5]

種子に関しては、ラン科植物は莫大な量の種子を作るが、それがあまりにも小さく、しかも貯蔵栄養を持たないという特徴がある。自然界ではいわゆるラン菌が共生することで初めて発芽生育が行われるが、これを人工的に行うのは難しく、例えば親株の根元に蒔くなどの方法も知られてはいたが、成功率は高くなかった。

株の増殖は、改良品種などの系統を維持するには必須である。これに関しては、種類にもよるが,多くのラン科植物は繁殖が早くない。後述の単茎性のものでは何年も一株から増やせない例もあり、複茎性ではもう少しましではあるものの、その増加率は高くなく、例えばシンビディウムでは年に二倍程度と言われた。このことがランの値を高いものとし、1960年代にはものによっては1鉢が月収や年収に相当するなどという話もあった。この状況を激変させたのが無菌播種法とメリクロン技術であった[6]

無菌播種法は、寒天培地に必要な栄養源を添加したものに種子を散布する方法で、このようにすればラン科の種子が菌の存在なしに発芽成長することはアメリカのナドソンが1922年に発見した。この方法は目的とする種の繁殖法としてだけでなく、交配品種の作成にも大きく預かることになった。ラン科では種間だけでなく、属間でも稔性のある雑種が作れる例が多いが、交雑によって作られた種子の発芽がそれまでは保証できなかったからである。

メリクロンは成長点の組織細胞を人工培養する技法のことで、元来はウイルスに感染した植物からウイルスのない株を取り出す技術として開発されたものだった。1960年にフランスのモレルがこの目的のためにシンビデジウムの茎頂組織から新しい植物体を生育させることに成功した。同時にこの際に培養中に組織が数倍に成長するという点が注目され、むしろ繁殖法として利用できると考えられるようになった。1963年にアメリカのウィンバーがシンビジウムについて液体培地を用い、振とう培養することで繁殖させる方法を開発、さらにモレルは他のラン科植物でも同様な方法が有効であることを示した。現在ではシンビジウムの場合、1年で約4,000倍から17,000,000倍まで増殖が可能という。この方法はたちまちラン科植物の繁殖法として実用化された。これは、一つにはそれ以前からの無菌旛種法の普及で無菌操作的な技術や装置に対してこの分野ですでになじみがあったこと、それにランが単価の高いものであるために苗代が多少高価になっても需要があったためと考えられる。
利用

基本的には観賞用ではあるが、内容的には大きく二つに分かれる。趣味としての栽培と、切り花ないし鉢物として販売することを目的としたものである。

元来は洋ラン栽培は趣味の対象のみであった。栽培に温室など高度の施設が必要である上、繁殖力が低いので、販売するには高価であり、産業として成立しなかったからである。だが、熱帯域の国での栽培が広まることで栽培に施設が不要になり、また上記のような大量繁殖の技術の成立により、遙かに安価に生産が出来るようになったことから、洋ラン栽培は産業として成立するようになった。花屋の贈答品コーナー
ほとんどがコチョウラン、右端にデンファレ

現在日本で販売される洋ランではコチョウランがもっとも量が多い。コチョウランとデンファレは周年にわたり、花や開花株が出荷されている。また年末にはこれに多量のシンビディウムが加わり、さらにノビル系デンドロ、オンシジウムやパフィオペディルムも数を増す。これらの多くは贈答用として販売される。それらは見かけの上では鉢物であっても、栽培を前提としない例が多く、使い捨て的に扱われる。それでも根まであるだけに花持ちはよく、一ヶ月程度は鑑賞できる。特に複数の花茎をつける大株仕立ては、実際には個々に開花させた鉢物を出荷時にまとめ植えしただけで、表面のマルチをはがすと大鉢にビニール鉢がそのままで入っている例も多い。栽培をする場合には、そのままでは水やりすら非常に困難で、取り分けた上で植え替えをすることが推奨されている。
季節に関して

洋ランは多くが熱帯域のものなので、季節は関係ないかと言えば、必ずしもそうではない。もちろん多くの群が含まれるので一概には言えないが、はっきりと開花期を選ぶものは多い。


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