法隆寺金堂壁画
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年1月)
飛天図(内陣小壁20面のうち14号)6号壁『阿弥陀浄土図』(上部、焼損前)

法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)は、奈良県斑鳩町法隆寺金堂の壁面に描かれていた仏教壁画である。制作年代は7世紀後半?8世紀初めと推定される[1]。確実な歴史的史料がないことから作者は不明とされている。インドアジャンター石窟群壁画、中国敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)壁画などとともに、アジアの古代仏教絵画を代表する作品の一つであったが、1949年昭和24年)の火災で焼損した[1]。焼け残った壁画の現物は法隆寺境内の収蔵庫で保管されているほか、火災前に模写が制作されていた[1]。火災後の1967年に壁画再現事業が発願され、翌年完成した[2]

壁画の画像は外部リンクも参照のこと。
概要和田英作画『金堂落慶之図』(1918年)

「法隆寺金堂の壁画」といえば、金堂外陣(げじん)の土壁に描かれていた12面の壁画を指すことが多いが、これらの他に内陣小壁に描かれていた飛天の壁画20面と、外陣小壁の『山中羅漢図』18面があった。このうち、外陣の壁画12面は1949年の金堂の火災で焼損し、小壁の羅漢図は跡形もなく粉砕されてしまった。内陣小壁の飛天の壁画20面のみは1945年に当時取り外されて[2] 別の場所に保管されていたため難を免れた。

法隆寺金堂壁画の芸術的価値は、日本において文化財の近代的な調査・保護が始まった明治時代初期(19世紀末)から既に認識されていた。壁画の劣化・剥落は当時から始まっており、いかにして壁画の劣化を食い止め、後世に伝えていくかについては、明治時代から検討が行われていた。1940年(昭和15年)からは、当時の一流の画家たちを動員して壁画の模写事業が開始された[2]。模写事業は第二次世界大戦を挟んで戦後も続けられたが、1949年(昭和24年)、不審火によって金堂が炎上。壁画は焼け焦げてその芸術的価値は永遠に失われてしまった。この壁画焼損事件は、日本の文化財保護の歴史における象徴的な事件として記憶され、文化財保護法制定のきっかけとなった[1]。また、壁画が焼損した1月26日は文化財防火デーと定められ、日本各地の社寺等で消火訓練が行われている。現在、法隆寺金堂にある壁画は1967年から1968年(昭和42 ? 43年)にかけて、当時の著名画家たちによって復元されたものである[2]

焼け焦げたオリジナルの壁画は1951年に抜き取り作業が始まり[2]、法隆寺内の大宝蔵殿の裏手の収蔵庫(翌1952年建設[2])に、焼け焦げた柱などと共に保管されている。収蔵庫は湿度の変化を避けるため非公開となっているが、公開に向けて環境調査などを行っている[3]。収蔵庫内の各壁画は鉄枠や合成樹脂で保護されているが、焼損した壁画が現在も境内にあることを知らない人も多い。専門家による金堂壁画保存活用委員会による検討を経て、2021年秋には、保存活動への支援金を募るクラウドファンディング協力者500人に限定した公開が行われる予定である[2][4]
壁画の所在
外陣壁画

法隆寺金堂初層は外陣(げじん)が正面5間、側面4間、内陣が正面3間、側面2間である。ここでいう「間」は長さの単位ではなく間の数を表す建築用語であり、「5間」とは柱が1列に6本並び、柱間が5つあるという意味である。外陣の周囲には裳階(もこし)と呼ばれる(ひさし)部分があり、一般拝観者が立ち入りを許されるのはこの裳階部分である。外陣の正面5間のうち中央の3間、背面の中央間、両側面のそれぞれ北から2間目、以上6面の柱間には扉が設けられ、残りの12面を土壁とし、ここに壁画が描かれていた。

壁画には1号から12号までの番号が振られている。東側の扉を入って左側の壁が1号壁で、その隣(南側)が2号壁、以下、時計回りに番号が振られ、東側扉の北側に位置する壁が12号壁である。壁面の大きさは横幅255 ? 260cm前後の大壁(たいへき)と横幅155cm前後の小壁(しょうへき)の2種類がある(壁面の高さはいずれも約310cm)。東面の1号壁、西面の6号壁、北面中央扉の左右に位置する9号壁と10号壁の計4面が大壁、外陣の四隅に位置する残り8面が小壁である。
外陣小壁画

上記12面の壁画のすぐ上、すなわち頭貫(かしらぬき、柱の頂部を水平方向につなぐ材)と天井の間の小壁面には『山中羅漢図』の壁画18面があった(6箇所にある扉の上にも小壁面があったので計18面となる)。この『山中羅漢図』については、明治時代以前に5面が既に塗り潰されて、残りも1949年の金堂の火災の際に粉砕され、現存していない。火災以前の写真は1面分が残るのみで、あとは明治時代に桜井香雲という画家が残した模写によっておおよその図様を知るのみである。
内陣小壁画

内陣の長押(なげし)上の小壁には20面の飛天の壁画があった。内陣は正面3間、側面2間で、正面、背面、両側面に計10間の柱間があり、1つの柱間に2面の壁画があったので、計20面となる。壁画には1号から20号までの番号が振られている。南側東端が1号で、以下時計回りに2号、3号と続き、東側南端が20号である。これらの壁画は、1949年の火災の際には取り外されて別途保管されていたため難を免れた。これら20面の一部は寺内の大宝蔵殿で展示されることがある。
壁画の主題10号壁『薬師浄土図』(焼損前、画題については異説もあり)
外陣壁画

外陣の壁画12面のうち、1号、6号、9号、10号の4面の大壁には三尊仏を中心にした浄土図が表され、残り8面の小壁には各1体ずつの菩薩像が表されている。大壁4面の主題については、1号壁=釈迦浄土図、6号壁=阿弥陀浄土図、9号壁=弥勒浄土図、10号壁=薬師浄土図とするのが通説となっているが、異説もある。

鎌倉時代、法隆寺僧の顕真の撰になる『聖徳太子伝私記』には金堂壁画について言及している部分があり、東の壁(1号壁)は宝生如来、西の壁(6号壁)は阿弥陀如来、北の裏戸の西脇壁(9号壁)は釈迦如来、北の裏戸の東脇壁(10号壁)は薬師如来を主尊とした浄土を描いたものだとしている。近代以降、壁画に対する美術史的研究が進展するとともに、『太子伝私記』説とは異なる尊名比定が行われるようになった。その1つは、四大壁の主題を『金光明経』に説かれる四方四仏を表したものであるとする説である。『金光明経』の四方四仏とは、東=阿?仏(あしゅくぶつ)、西=無量寿仏(阿弥陀)、南=宝相仏、北=微妙声仏(みみょうしょうぶつ)である。この場合、1号壁=阿?、6号壁=阿弥陀、9号壁=微妙声、10号壁=宝相、となる。この説は1916年(大正5年)、美術史家の瀧精一の所説によって知られるようになったが、明治時代末期に小野玄妙も同様の説を唱えていた。しかし、阿弥陀以外の阿?、微妙声、宝相については、上代に造像例が見られないことがこの説の難点であった[5]

福井利吉郎は1917年(大正6年)に発表した説で瀧説を批判し、上代の四方四仏は釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の組み合わせに限られるので、法隆寺金堂の四大壁についてもこれらの仏の浄土を表したものだとした。その例証として、天平2年(730年)に建立された奈良・興福寺五重塔の初層には釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の浄土を表現した塑像群が安置されていたことを挙げている。源豊宗も1926年(大正15年)の論文で、四大壁の主題は釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の四仏であるとした。金堂壁画の四大壁は、東西南北の方位に正確には対応していないが(北面には大壁が2つあり、南面には大壁がない)、源説では1号壁=南方釈迦、6号壁=西方阿弥陀、9号壁=北方弥勒、10号壁=東方薬師にあたるとする。四方(東西南北)を守護する四天王像は、実際に安置される場合は、東西南北ではなく仏壇の四隅に配されるが、源説では法隆寺金堂壁画の方位のずれについても四天王の安置法と同様であると解釈する[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef