法輪寺_(奈良県斑鳩町)
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法輪寺

所在地奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度37分21.00秒 東経135度44分19.87秒 / 北緯34.6225000度 東経135.7388528度 / 34.6225000; 135.7388528 (法輪寺)座標: 北緯34度37分21.00秒 東経135度44分19.87秒 / 北緯34.6225000度 東経135.7388528度 / 34.6225000; 135.7388528 (法輪寺)
山号妙見山
宗派聖徳宗
本尊薬師如来重要文化財
創建年1.推古天皇30年(622年
2.天智天皇9年(670年
開基1.山背大兄王
2.百済開法師・圓明法師・下氷新物
中興年享保年間(1716年 - 1736年
中興寶祐上人
正式名妙見山法輪寺
別称三井寺、法林寺、法琳寺
札所等聖徳太子霊跡第16番
大和北部八十八ヶ所霊場第53番
文化財木造薬師如来坐像、木造虚空蔵菩薩立像、木造十一面観音菩薩立像ほか(重要文化財)
西門、木造釈迦如来坐像、銅錫杖頭(県指定有形文化財
法人番号7150005003464
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金堂講堂(収蔵庫)三重塔

法輪寺(ほうりんじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町三井にある聖徳宗寺院山号は妙見山。本尊薬師如来。三井寺(みいでら)とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも表記する。

法隆寺東院の北方に位置する。現存する三重塔1975年昭和50年)の再建であるため、世界遺産法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。三井寺という別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりといわれている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。
歴史
創建

当寺の創建については、『日本書紀』や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(ほうりゅうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)には記載がなく、不明な点が多い。

創建については、古くから2つの説がある。1つの説は『聖徳太子伝私記』(嘉禎4年・1238年、顕真著)に見えるもので、聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、推古天皇30年(622年)に建てた、とする。今一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期成立)および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。これらの人物の名前については「聞法師、円明師、下氷君雑物(しもつひのきみくさもの)とも伝えるが、いずれの人物も伝記は不明である。

発掘調査の結果、法隆寺再建伽藍(現存)に近い瓦と、それより一段階古い瓦とが出土している。また、前身建物の遺構とみられる掘立柱穴や溝も検出されており、当時の創建は飛鳥時代末期、7世紀中頃までさかのぼると考えられている。
以降の歴史

貞治6年(1367年)正月3日、炎上する。これ以降、寺勢は振るわなくなり江戸時代にはめぼしい建物は三重塔くらいであった。

正保2年(1645年)、台風に罹災し三重塔を除く建造物が倒壊する。

享保年間(1716年 - 1736年)に入ると、寶祐上人によって妙見信仰に力が入れられて伽藍の復興が行われ始め、享保16年(1731年)に妙見堂が再建された。

宝暦10年(1760年)に三重塔が修復されると、次いで宝暦11年 (1761年)には金堂、講堂、南大門が再建された。

1903年明治36年)、国宝に指定されていた三重塔が解体修理される。しかし、1944年昭和19年)7月21日、三重塔が落雷により焼失する。避雷針太平洋戦争中の金属類回収令で撤去されていたためである。

1950年(昭和25年)、発掘調査をする。法隆寺法相宗から独立して聖徳宗を設立すると、法起寺も聖徳宗に宗旨を改める。

1975年(昭和50年)に三重塔が再建された。
境内火災以前の三重塔

1950年昭和25年)、仏教考古学が専門であった石田茂作(いしだ もさく、1894年 - 1977年)が法輪寺を発掘・調査し、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ、法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことが分かった。

金堂 - 堂内に安置されていた本尊薬師如来坐像、虚空蔵菩薩立像などは講堂(収蔵庫)に移されている[注釈 1]

講堂(収蔵庫)

三重塔 - 1944年(昭和19年)に雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年(昭和50年)に西岡常一棟梁により再建されたもの。焼失した塔は、近隣の法隆寺法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。

西門(奈良県指定有形文化財) - 上土門(あげつちもん)の数少ない遺構のひとつ。

庫裏

妙見

鬼子母神

地蔵堂

鐘楼

南門

文化財

木造
薬師如来坐像 - 重要文化財。旧・金堂本尊で、現在は収蔵庫に安置されている。飛鳥時代後期の作。クスノキ材の一木造。像高110.2センチ。裳懸座に結跏趺坐し、施無畏与願印(右手は掌を正面に向けて上げ、左手は掌を上にして膝上に置く)を結ぶ如来像である。飛鳥時代の木彫像のほとんどがクスノキを用材としており、本像も例外ではない。頭体の主要部を一材から彫出するが、右体側部、両脚部などは別材を矧ぎ、他にも不規則な矧木がある。彩色はほとんど剥落し、木肌が現れている。宣字座はヒノキ材製、光背は後補。裳懸座を含めた全体が二等辺三角形に収まるような造形、古様な服制、面長な頭部、三道(くびれ)を刻まない、長い頸部など、法隆寺金堂本尊釈迦如来像(623年鞍作止利作)に似た要素もあるが、子細に見ると法隆寺釈迦像とは異なった点もある。眼を二重瞼とする点、唇からいわゆる「古代の微笑」(アルカイック・スマイル)が消えている点などは法隆寺釈迦像と異なる点で、本像の制作は法隆寺釈迦像より下る飛鳥時代後期(7世紀後半頃)であると推定される。胸前に下衣の線を斜めに表し、その下には裳(下半身に巻き付ける布)の結び紐の一部が見えている。本像の右肩に掛かる衣と、その下に偏袒右肩(へんたんうけん、右肩を露わにする着装法)に着る衣とは別である。つまり、本像は2枚の衣を着ていることになり、この点も法隆寺釈迦像とは異なっている[1][2]


木造虚空蔵菩薩立像 - 重要文化財。飛鳥時代後期の作。クスノキ材の一木造。像高175.4センチ。旧金堂安置像で、現在は収蔵庫に安置されている。反花(かえりばな)座の上に直立し、右腕は前膊部(肘から先)を正面に向けて突き出し、掌を上へ向ける。左腕は掌を後方に向けて垂下し、水瓶を持つ。頭体の主要部から足下の蓮肉と?(ほぞ)までを一材から木取りしている。内刳(うちぐり)は行わないが、像内には空洞があり、当初から朽損のある材を用いた可能性がある。


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