法輪寺_(京都市西京区)
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法輪寺

本堂
所在地京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町68
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分36.85秒 東経135度40分37.11秒 / 北緯35.0102361度 東経135.6769750度 / 35.0102361; 135.6769750座標: 北緯35度0分36.85秒 東経135度40分37.11秒 / 北緯35.0102361度 東経135.6769750度 / 35.0102361; 135.6769750
山号智福山
宗旨古義真言宗
宗派真言宗五智教団
本尊虚空蔵菩薩(秘仏)
創建年伝・和銅6年(713年
開山伝・行基
開基伝・元明天皇(勅願)
正式名智福山法輪寺
別称虚空蔵法輪寺
嵯峨虚空蔵(嵯峨の虚空蔵さん)
木上山法輪寺、木上山法林寺(貞観16年(874年)から)、木上山葛野井寺、木上山葛井寺(かずのいでら)
漆寺
札所等京都十三仏霊場第13番
文化財木造持国天多聞天立像(重要文化財
公式サイト嵐山 虚空蔵法輪寺
法人番号9130005001360
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法輪寺(ほうりんじ)は、京都市西京区嵐山虚空蔵山町にある真言宗五智教団[1]寺院山号は智福山[2]本尊虚空蔵菩薩十三まいりで有名である。
概要

名勝嵐山の山腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩は「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」として親しまれ、陸奥国会津柳津円蔵寺伊勢国朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称される。古くは『今昔物語集』・『枕草子』・『平家物語』などにその名が見え、知恵、芸事の上達、また丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。十三詣り針供養[3]祖神の寺としても著名である[4]。さらに境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている[5]
歴史

寺伝によれば、もともとこの地には始皇帝の子孫である弓月君(融通王)の一族・秦氏が建てた葛野井宮(かずのいぐう)があり、三光明星尊が祀られていたという。 その地に和銅6年(713年)になり、行基元明天皇の勅願によって国家安穏、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する木上山葛井寺(かづのいでら)として堂舎を建立したのが当寺の始まりであるという[2]

以後は真言宗寺院として歴代天皇勅願所となり、勤操空海覚鑁明恵日蓮などが参籠したという。

天長6年(829年)、空海の弟子である道昌が当寺に虚空蔵菩薩像を安置したという。また、道昌は大堰川を修築し、承和3年(836年)にはそこに当寺への参詣道でもある法輪寺橋を掛けている。この橋は後に亀山上皇によって渡月橋とも呼ばれるようになった(江戸時代までは正式名を法輪寺橋といった)。

貞観10年(868年)には寺名を法輪寺と改めたという[1]

貞観16年(874年)に山腹を切り開いて堂を改修し、天慶年間(938年 - 947年)に空也が参籠して勧進し新たに堂塔が建てられたという。

応仁元年(1467年)、応仁の乱の際に西軍の畠山義就が東軍の成身院光宣を当寺の門前で迎撃した際に戦火を受けて罹災し、以後衰微してしまった。

慶長2年(1597年)に後陽成天皇により法輪寺再興勧進の勅旨を下賜され、前田利長の帰依を得て堂塔が再建された。その際、「智福山」の山号を天皇より賜っている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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