法解釈(ほうかいしゃく、英: legal interpretation)とは、法の適用に際して条文の意味を明晰化する作業である[1]。法解釈は、紛争や犯罪のような具体的事件が行われ、それがどのような法律に該当するか条文を探し、その条文と事件との関係を考えるという順序で進行する[1]。
概要「馬つなぐべからず」という立て札があるときに、牛はつないでも良いのであろうか?[2][註 1]
法解釈とは、各種の法源について、その内容を確定することをいう[3]。法源とは、法解釈の対象となる、法の存在する形式のことをいう[4]。文字に表された抽象的規範ないし法則は、たとえそれ自体は一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、不可避的に解釈上の疑義を生む[5](右画像参照)。法学の対象とする法もまた例外でないから、法律を暗記してもそれだけでは役に立つものではなく[6]、ここに法解釈の必要が生ずる[5](→#論理解釈)。
法解釈は、紛争や犯罪について罰するための根拠となる条文を見つけ、該当する条文があればそれを論拠とし、解釈によって自説と条文を結び付けて行われる[1]。法解釈は、犯罪や紛争に関与した人を裁く裁判所や、刑法に基づき実力を行使する警察などによって行われる。刑法に違反した者は犯罪者となり刑罰を受けるだけに留まらず、職や家族などの今まで築いてきた関係性や将来の職業選択の自由を失う可能性も生じることになる。したがって、刑法など刑罰法規においては、類推解釈は類似か否かがあいまいで刑罰権が恣意的に拡張されるおそれがあるため、罪刑法定主義の原則に従って禁止されている[1](→#反対解釈・類推解釈)。
法解釈においては、単に具体的事件のみに妥当な結論を導くことができれば足りるものではなく、同種の事件が生じたときにも、同様の結論を得ることができるように客観的に行われなければならない[7]。さもなければ、どのような行為があればどのように法的に判断・処理されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態、すなわち法的安定性[8]が害されてしまうからである[9]。したがって、法解釈においては、法的安定性を害すること無く、いかにして個別の事案についての社会的正義、すなわち具体的妥当性を発揮するかが最大の課題である[10][註 2](→#立法者意思説と法律意思説)。そして、注意しなければならないのは、法的安定性と具体的妥当性のどちらを重視し、両者をどこで調和させるかは、時代によって[11](→#概念法学と自由法論)、また法律の領域によっても異なってくるということである[12](→#刑法及び行政法における慣習法)。要するに、解釈という論理操作を経ずに意味の明瞭な法は、一つも無いと言ってよい[5]。
そこで、次のように言われている[13]。真の解釈のためには為すべきことが多い。諸外国の類似の制度を顧み、且沿革に遡って現行制度の特質を理解することがその一である。判例を明かにして条規の文字の実際に有する活きた意味を知ることがその二である。社会生活の実際に即して法規の作用を検討し、人類文化の発達に対して現行法の営む促進的或は阻止的な作用を理解し、進んでその批判を努むべきことがその三である。社会生活の変遷に順応した、しかも現行法の体系として矛盾なき統一的解釈理論を構成することがその四である。而して、その何れの場合にも先進の学者の説に学ぶべきことは謂うまでもない。これをその五とする[14]。 ? 我妻栄 近現代における法解釈学は、イルネリウスをはじめとする註釈学派がスコラ神学における聖書解釈技法を取り入れて、成文のローマ法大全の解釈方法としたものに由来するところが大きい[15]。しかし、法源は法典を始めとする明文の制定法(成文法)に限られないから、慣習法や判例法などの不文法についても、解釈は必要である[16]。成文法以外に法源を認めるか、認めるとして成文法との関係をどのように捉えるのかについては、法解釈の基本的態度の違いに直結するから、裁判の前提たる法源を明らかにする法源論は、法解釈のあり方を考察するにあたって必須の一大要素である[17][註 3]。 慣習法とは、慣習に基づいて成立する法のことをいう[18]。判例を含めたものをいう場合もある[19]。 歴史的沿革のうえでは、慣習法は成文の制定法に先立つものであるから[22]、両者に共通する法解釈の根本問題は慣習法より生まれた[23]。 すなわち、原初社会においては、人々は例えば正義の女神テミスの名を冠した神託裁判によってなされたというだけでその結果を受け入れるのが普通であったが、社会の発達にしたがってその思想は次第に変化し、公平さを求めて次第に神託そのものも同種の事件は同様に扱うようになっていった[24]。故に、そのような神託裁判もまた慣習法の起源もしくはその一種であると考えられている[25]。 法的安定性の重視を端的に表す有名な法格言、「悪(酷)法もまた法なり」[26][27]も、本来は古代ローマにおいて制定法ではなく慣習法についていわれたものである[28]。慣習法は民衆一般より自然的に生じるものであるから、たとえ他民族からみてそれが過酷に過ぎるものであっても、当該社会では通常のこととして認識されるからである[28]。一方、制定法においては、これとは逆に人為的に社会を改善しようとするものであるから、「至厳の法は最大の不正義」(悪法は法にあらず[29])という法律格言がかなり古くから行われていたことはキケロの著書中に確認することができ、この格言はイギリスの衡平法裁判の起源となるなど、ヨーロッパ各国に継承されたのであるが、後の18世紀末から19世紀の立法権過信時代には、かえって正反対の「悪法も法なり」が制定法について承認され、道徳と法律の厳格な峻別が主張されるに及んだのである[30]。その結果として現れたのは、裁判官の権力縮小と、慣習法の効力否認であった[31]。 つまり、法解釈においては、悪法もまた法であるとのテーゼに対し、これを肯定的に解して客観的な成文法のみをその対象とすることで司法を拘束し、もっぱら立法によってその是正を図ろうとする立場と、それとは逆に、司法を信頼して成文法以外に広くその対象を求めることによって悪法の不備を是正しようとする立場との二大潮流がありうることになる[32]。
法解釈の対象
慣習法
悪法は法か1543年、Hans Gieng
慣習法解釈の問題点歴史法学派の巨頭にして[33]、近代法学の祖とされるサヴィニー[34]。