この項目では、八坂の塔で知られる京都の法観寺について説明しています。その他の用法については「法観寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
法観寺
八坂の塔
所在地京都府京都市東山区八坂通下河原東入る八坂上町388
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分54.78秒 東経135度46分45.27秒 / 北緯34.9985500度 東経135.7792417度 / 34.9985500; 135.7792417
法観寺(ほうかんじ)は、京都市東山区八坂上町にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。本尊は五智如来。飛鳥時代に創建された、京都で最も古い寺院の一つ[3]。境内は京都市指定の史跡[4]。古代には八坂寺(やさかでら)と称された[3]。
東山西裾の台地上に立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、東山周辺のランドマークとなっている。現在の寺域は狭小で、15世紀に再建された五重塔以外に目立った建築物はないものの、法灯は脈々と続いている。八坂神社?清水寺間(約1Km)のほぼ中間に位置する。 寺伝によれば、如意輪観音の夢告によって教示された聖徳太子が五重塔を建立して仏舎利を納めたと伝える(『法観雑記』所収「山城州東山法観寺仏舎利塔記」永享12年〈1440年〉足利義教記文[1])[4][5]。時は崇峻天皇己酉歳(崇峻天皇2年=589年)と記す[1]。 聖徳太子開基説は「山城州東山法観.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}禅(?)寺仏舎利塔記」(暦応元年〈1338年〉清拙正澄撰)にもみられ、近世の地誌類は概ねこの説に従うものが多いが、いずれの史料も中世前期の記録であり信憑性には疑義がある[6]。ただし、2009年(平成21年)の調査により、7世紀に製作された?仏や礎石および古代瓦などの遺跡が発掘されたことで、その創建は平安京遷都以前の飛鳥時代にまでさかのぼる古い寺院であることが確認されている[3][7]。出土する瓦の年代から天武朝創建の可能性が高いという[8]。創建時の伽藍配置は不詳であるが、四天王寺式伽藍配置説と法隆寺式伽藍配置説の二説があり決着していない[6]。造営に関しては、高句麗から渡来して八坂郷に定着し、平安時代に八坂造(やさかのみやつこ)となった氏族がその推進者であったとの見方が有力である[6][9][10]。 寺号は当初は八坂寺と称され、文献上の初見は『続日本後紀』の承和4年(837年)条に見られる[6]。同じく平安時代の書物『延喜式』にも、二度にわたりこの寺の名が出てくる[11]。
歴史