法美郡
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鳥取県法美郡の位置 袋川(旧称・法美川)と因幡三山

法美郡(ほうみぐん)は、鳥取県因幡国)にあった。律令制のもとで7世紀後半に設置されたと推定されており、古代から近世まで法美郡として存続した。明治維新に伴う制度改革でいちど廃止されたが、まもなく行政単位として復活、1896年(明治29年)に近隣の郡と合併して岩美郡となった。郡域の多くは、現在は鳥取市の一部となっている。
目次

1 郡域

2 古代史

2.1 『伊福部臣古志』にみる法美郡の成立

2.2 『和名抄』にみる郡内の郷

2.3 古代の交通路

2.4 式内社


3 中世から近世

3.1 鎌倉時代

3.2 室町時代

3.3 江戸時代


4 近現代

4.1 沿革


5 行政

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 関連項目

郡域

時代によって違いがあるが、法美郡の範囲は主に袋川(古名・法美川[1])の中・上流域(旧国府町一帯)を中心としている。中世まではこれに塩見川流域(旧福部村一帯)が含まれていた。また、蒲生川の支流である小田川の上流域(岩美町の一部)も含まれていたとする説もある。いずれにせよ両地域は後に岩井郡巨濃郡)へ編成されている[1][2]

この地域を代表する袋川は、縄文時代には単独で日本海へ注いでいたが[3]、現代では一級河川千代川の支流に位置づけられており、千代川水系のなかでは2番めに長い支流である[4]。平安時代後期から近世までは法美川と呼ばれていた[5]ほか、因幡川や国府川と呼ばれていた[6][† 1]。郡内を流れる主要な袋川支流としては、美歎(みたに)川、上地(わじ)川、大石川などがある[5]

塩見川の流域は服部郷として古代から江戸時代まで法美郡の一部を成していた。その当時には塩見川の海浜部には福部砂丘(鳥取砂丘の東部)があり、その後背地に取り残された潟湖として湯山池と細川池があった。これらは古くは日本海に連なる入江だったとされており、神功皇后三韓征伐の際の寄港地としての伝説が遺されている。正確な年代は不明だが、塩見川流域は江戸時代に法美郡から岩井郡(=石井郡=巨濃郡)に移管されており、両池は江戸時代から近現代にかけての干拓によって姿を消した[2]

山岳としては、東部に扇ノ山系が連なるほか、袋川と塩見川の分水嶺として稲葉山がある[2]

法美郡が隣接している地域は、因幡国内では北東の巨濃郡、南の八上郡八東郡、西の邑美郡である。また、東端部では扇ノ山の稜線によって但馬国と接している[2]

他にも、江戸時代の正保年間以前には百谷村(ももだにむら)が邑美郡から編入されたと見られる。

その結果、1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、鳥取市の一部(国府町美歎、百谷、小西谷、卯垣、立川町、大杙、正蓮寺、杉崎、津ノ井、桂木、船木、広岡、香取より南東および南吉方の一部)にあたる。
古代史 因幡国庁跡 大路山と久松山を結ぶ線が条里制の基準となっている。現在の県道323号若桜街道)は一部が当時の姿を伝えている。画像正面が大路山。 因幡国一宮の宇倍神社 因幡国国分寺跡

法美郡の国府町には文武天皇(在位:697年-707年)の采女である伊福吉部徳足比売の墓跡があり、国の史跡に指定されている。ここから発見された墓誌には「和銅3年」(710年)の銘があり、これが「法美郡」の名称が登場する最古の史料である[7]

因幡国の中心地であった鳥取平野(邑法平野)には古代の条里制の姿が遺されている。この条里制は久松山山頂と大路山の山頂を結ぶ線を条里の基準線と定めており、約109m四方の土地割が行われている[7][8]
『伊福部臣古志』にみる法美郡の成立

古代の因幡国では、在郷の豪族伊福部氏(伊福吉部氏)が長らく国造を務めていた[9][† 2]。その伊福部家に伝わる歴史書『因幡国伊福部臣古志』(伝784年成立[† 3])には、7世紀の中頃の因幡国に、初めて令制国の下位統治機構であるが設けられたという記述があり[2]、古代日本の行政区域に関する重要な史料と位置づけられている[12]

『因幡国伊福部臣古志』 第廿六 大乙上都牟自臣

是れ大乙上の都牟自臣は、難波長柄豊前宮御天万豊日天皇二年丙午、水依を立て督に任じ、小智冠を授く。時に因幡国は一郡を為し、更に他郡無し。(中略)後岡本朝庭[斉明天皇]四年戊午、大乙上を授く。同年正月、始めて水依評を懐き、高草評を作る。[13]

この史料から郡に関する記述を抜き取ると、孝徳天皇2年(648年)に、因幡国で唯一の評として「水依(みずより・みずえの)評」が立評され、次いで斉明天皇4年(658年)に水依評を分割して「高草評」(高草郡)が新設されたとなる[12]。別の史料からは、天武天皇12年(683年)までに水依評の残った部分が二分割され[† 4]、「法美評」(法美郡)と「邑美評」(邑美郡)となり、さらに8世紀に「評」が「郡」に改められたことが伝えられている[15]。こうした制度の変化は、朝廷が中央集権化をすすめるため、地方豪族の力を弱めようと行ったものだと考えられている[12]

ただし、『因幡国伊福部臣古志』の記述は研究者によって様々な解釈が試みられており、とりわけ因幡国と水依評、そして各郡の関係や成立時期については様々な学説がある[† 5]


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