法的深海底(ほうてきしんかいてい)とは、国家の管轄が及ばない海底とその地下である[1]。 従来国際法上の海のとらえ方は、沿岸国の主権が及ぶ領海を狭くとり、すべての国自由が保障される公海を広くとるという、いわゆる「広い公海」と「狭い領海」の二元構造だった[2][3]。しかしここで言う「公海」とは、海域を指す用語であって公海水域の下にある深海底を指す用語ではなく、かつては深海底区域に適用されるべき制度が存在しなかった[4]。1945年9月28日、アメリカ合衆国がトルーマン宣言において、自国海岸に隣接する海底(大陸棚)とその地下にある天然資源がアメリカの管理・管轄に服することを宣言した[2]。これは「広い公海」と「狭い領海」の二元構造の枠内で、上部水域を公海にとどめることで他国の航行の自由に配慮する一方、地形学的概念であった大陸棚を国際法上の概念として取り入れることで公海の下部にある海底の資源、その中でも特に石油に対する排他的権利を主張したものであった[2]。しかしこのアメリカの宣言は、「狭い領海」と「広い公海」というそれまでの海洋秩序に混乱をもたらし、アメリカの宣言の同調した各国による沿岸海域分割の主張を促した[2]。特に発展途上国の中には自国沿岸の海底に対してのみならず、アメリカが他国の航行の自由が認められるとした大陸棚の上部水域に対してまで自国の権利を主張したのである[2]。1958年には大陸棚条約が採択されるなど徐々に大陸棚制度が確立していくが[5]、大陸棚条約に定められた以下の大陸棚の定義は後のさらなる混乱をもたらすことになった[6]。 海底天然資源の開発が可能な限度まで、という大陸棚条約における大陸棚の範囲設定は、水深200メートルよりも深い海底部分を開発できるまでに海底開発技術を進歩させることができれば、理論上は自国の権利を際限なく沖合まで主張することを可能とするものであった[2]。そのため各国の技術が進むにつれて、海底の軍事利用の危険性や過剰な資源開発競争に対する懸念が現実味を持つようになった[7][8]。 1960年代になると海底には地上に埋蔵するよりもはるかに大量のマンガン団塊が埋蔵していることが明らかになり、世界的な注目を浴びた[9]。1967年8月17日、マルタ政府国連代表のパルド
沿革
海底への権利主張
自国沿岸に隣接している領海の外側の海底であって、水深が200メートルまでの海底区域、または、
水深が200メートルをこえているが海底天然資源の開発が可能な限度までの海底。
パルド提案
1973年から始まった第3次国連海洋法会議では、深海底の開発主体や開発方法、国際海底機構の役割、深海底開発による利益の国際社会への還元、などといった諸点について、先進国と発展途上国との間で対立があった[13]。同会議においては、従来の表決手続きによる条約採択では問題の本質的解決を得るのは難しいと判断され、合意に至るまで話し合い票決は行わないという、コンセンサス方式が導入された[14]。しかし深海底制度に関しては各国の対立は解消されず、1981年に発足したアメリカのレーガン政権は条約案全体を修正することを主張し、全面修正案を会議に提出した[15]。それまで同会議では一切の事項をコンセンサス方式によって決定してきたが、アメリカの全面修正案は会議参加諸国に受け入れられず、結局コンセンサス方式を断念して票決によって採択せざるを得なかった[14][15]。それでも表決は賛成130、反対4、棄権17という圧倒的賛成多数で決せられたが[15]、アメリカに同調する国の多くは棄権票を投じた[16]。コンセンサス方式の断念による採択は少数派諸国の利益にまで十分な配慮を尽くせなかったことを示しているともいえる[14]。こうして1982年4月30日に同会議で採択された国連海洋法条約では第6部に大陸棚に関する諸規定がおかれ[17]、大陸棚の範囲について以下のように規定された。
領土の自然の延長をたどって大陸棚縁辺部まで[15]。
大陸棚縁辺部が基線から200海里までのびていない場合には基線から200海里まで[15]。
大陸棚縁辺部が基線から200海里以上にのびている場合には、基線から350海里までか、または2500メートルの等深線から100海里の距離をこえてはならない[18]。
国連海洋法条約では上記のように定義される大陸棚の範囲をこえる海底部分が深海底とされた[19]。また同条約第11部には深海底に関する諸規定がおかれ[1][20]、深海底とその資源を「人類の共同遺産」とする考え方が引き継がれた[11]。しかし私企業の利益確保を主張し国際海底機構の直接管理方式に異を唱えたアメリカ合衆国、イギリス、西ドイツが国連海洋法条約への不参加を表明するなど[12]、条約に規定される国際機構の設立に必要な技術力・経済力を有する先進各国が離脱した[21]。