法政騒動
[Wikipedia|▼Menu]
法政騒動を報じる『東京朝日新聞』(1934年1月7日付朝刊15面)

法政騒動(ほうせいそうどう)は、1933 - 1934年昭和8 - 9年)に法政大学で発生した学校騒動である。
概要野上豊一郎

1933年(昭和8年)11月、法文学部教授の森田草平から野上豊一郎学監兼予科長を解任すべきとの要望が出された。反野上派は4つのスローガンを掲げて野上の排斥を迫った。
学長問題(他の有力な人物を学長に推すべきだとの声が一部にあった)

隣接地購入問題(大学の隣の旧陸軍用地を購入できないのはなぜか)

財政問題(松室致前学長が残した巨額の負債をどうするのか)

人事行政問題(法政大学出身者をもっと教員に採用せよとの動きもあった)

これらの問題が解決しないのは野上のせいだというのが反野上派の主張であった。

しかし、野上は森田も同様に処分しなければ辞職には応じないと返答したため、12月末、秋山雅之介学長は職権により学監と予科長の職を解き、教授の休職を命じた。さらに1934年(昭和9年)1月11日、野上支持の予科教授・講師47名をも解職し[1]、1月15日には騒動の「経過報告」をパンフレットで発表して事態の沈静化を図った。

その後、秋山学長は体調を崩して5月に辞職し、後任の水町袈裟六総長も就任後わずか1ヶ月ほどで死去したため、騒動の収拾は小山松吉次期総長の手に委ねられた。小山はさきに辞職した予科教員を順次復職させ(野上も1941年に復帰)、騒動の一方の責任者である森田草平も1935年10月に解職した。これによって法政大学は表面上平穏を取り戻したものの、順次復職した辞職組教員と騒動中に迎えられた新教員との間の感情的なしこりは長く続いたといわれる[2]

また、それまで「自由と進歩」を誇りにしていた法政大学の学風は、野上と入れ替わる形で顧問に就任した荒木貞夫(陸軍大将)や、騒動の調停に一役買った校友の竹内賀久治とその一派によって著しく損なわれることになる。
脚注[脚注の使い方]^ 『東京朝日新聞』 1934年1月12日。なお、同月20日には教員37名が補充された(『東京朝日新聞』 1934年1月21日)
^ 『法政大学百年史』, p. 641.

参考文献

大村八郎『帝都大學評判記』三友堂書店、1934年。doi:10.11501/1465891。全国書誌番号:.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}47009010。https://dl.ndl.go.jp/pid/1465891/1/1。 

秋山雅之介傳記編纂会『秋山雅之介傳』秋山雅之介傳記編纂會、1941年。doi:10.11501/1043321。全国書誌番号:46005952。https://dl.ndl.go.jp/pid/1043321/1/1。 

法政大学『法政大学八十年史』法政大学、1961年。doi:10.11501/9583799。全国書誌番号:77100007。https://dl.ndl.go.jp/pid/9583799/1/1。 

法政大学百年史編纂委員会, 法政大学『法政大学百年史』法政大学、1980年。doi:10.11501/12114411。全国書誌番号:81029285。https://dl.ndl.go.jp/pid/12114411/1/1。 

法政大学百年史編纂委員会『法政大学の100年 : 「1880-1980」小史』法政大学、1980年。doi:10.11501/12116066。全国書誌番号:81017631。https://dl.ndl.go.jp/pid/12116066/1/1。 

関連項目

学校騒動

外部リンク

宮永孝「昭和八、九年の「法政騒動」
」『社会志林』第59巻第4号、法政大学社会学部学会、2013年3月、200-179頁、doi:10.15002/00021153、hdl:10114/7956、ISSN 1344-5952。 











学校法人法政大学
法政大学

学部

法学部 | 文学部 | 経営学部 | 国際文化学部 | 人間環境学部 | キャリアデザイン学部 | デザイン工学部 | グローバル教養学部 | 経済学部 | 社会学部 | 現代福祉学部 | スポーツ健康学部 | 情報科学部 | 理工学部 | 生命科学部 | 通信教育部
研究科

人文科学研究科 | 国際文化研究科 |経済学研究科 | 法学研究科 | 政治学研究科 | 社会学研究科 | 経営学研究科 | 人間社会研究科 | 情報科学研究科 | 政策創造研究科 | デザイン工学研究科 | 公共政策研究科 | キャリアデザイン学研究科 | 理工学研究科 | 連帯社会インスティテュート | スポーツ健康学研究科 | 総合理工学インスティテュート | 法務研究科 | イノベーション・マネジメント研究科
研究所

大原社会問題研究所 | 沖縄文化研究所 | 現代法研究所 | 野上記念能楽研究所 | 日本統計研究所 | 国際日本学研究所 | 地域研究センター | 情報メディア教育研究センター | キャリアセンター | グローバル教育センター | スポーツ研究センター | 比較経済研究所 | イオンビーム工学研究所


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef