法性寺_(墨田区)
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法性寺

所在地東京都墨田区業平五丁目7番7号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分27.1秒 東経139度49分5.8秒 / 北緯35.707528度 東経139.818278度 / 35.707528; 139.818278座標: 北緯35度42分27.1秒 東経139度49分5.8秒 / 北緯35.707528度 東経139.818278度 / 35.707528; 139.818278
山号妙見山
院号玄和院
宗旨日蓮宗
寺格緋金襴寺跡・中本寺
本尊十界曼荼羅
創建年明応元年(1492年)
開山法性房日?
正式名妙見山玄和院法性寺
別称柳嶋妙見堂
文化財近松門左衛門供養碑
初代歌川豊国筆塚
公式サイト柳嶋妙見山法性寺
法人番号9010605000410
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法性寺(ほっしょうじ)は、東京都墨田区業平五丁目にある日蓮宗の寺院。
概要

山号は妙見山、院号は玄和院、通称は柳嶋妙見堂。旧本山は本山真間山弘法寺[1]。旧寺格は緋金襴寺跡・中本寺。池上中道不二庵法類 柳嶋法縁 縁頭寺。葛飾北斎が信仰していた寺として知られる。
歴史

明応元年(1492年)、真間山弘法寺[2] 7世・聚楽院日與の弟子とされる法性房日?が開山となり創建された。[1] 寛文13年(1673年)、弘法寺15世・妙悟院日玄が日朗門流(比企谷池上門流)の本拠である長興山妙本寺長栄山本門寺両山[3] 22世に晋山し南谷檀林を開檀。この事が端緒となり伊予阿闍梨日頂門流と日朗門流は急速に一体化の道を進んだ。日玄から江戸期最後の貫首である60世・妙慈院日運まで38人の貫首うち実に20人が弘法寺から晋山している事が、その証左である。[4]
柳嶋法縁

この流れの中で日頂門流系の寺院には飯高檀林城下谷(ねごやさく)出身の学僧が多く入寺するようになり、江戸時代中期には大きく2つの法縁[5] が成立する。1つが光照山感應寺を縁頭寺(中心寺院)とする堺感應寺法縁であり、もう1つが法性寺を縁頭寺とする柳嶋法縁である。この柳嶋法縁の縁祖と仰がれるのが18世・玄玄院日?である。 東山檀林の化主を務めた後の天明8年(1788年)に法性寺に入寺し、諸堂の全面改築と境内の拡張に尽力する事17年。文化2年(1805年)廣布山妙國寺に栄晋し権少僧都に任じられた。その後、同4年(1807年)には権大僧都、同6年(1809年)には大僧都に昇進し法印に叙せられ、同7年(1810年)には僧正に任じられた。更に妙國寺晋山後に正中山法華経寺に栄晋、最終的には比企谷池上両山の准歴にも叙せられ、文政2年(1819年)3月25日に64歳で遷化した。日?の後、歴代住職には東山檀林の化主が迎えられ比企谷池上両山・弘法寺龍水山海長寺等の貫首を輩出するなど、日朗日頂両門流の重要寺院として名声を高めていった。[6]
葛飾北斎

そして、数多くの名僧を輩出した以上に法性寺の名を高めたのが、北辰妙見大菩薩信仰の隆盛であった。日?が住持していた頃はまさしくその全盛期であったが、この頃に度々参詣していたと伝えられているのが葛飾北斎である。寺伝によれば、寛政6年(1794年)に勝川派を破門された北斎が生活の困窮と画業の大成を願い、当時“柳嶋の開運の妙見様”で名高かった柳嶋妙見堂に21日間通ったという。そして満願の日の帰路、突如雷に打たれて失神。再び眼を開いた時から運が開けて以来、度々参詣に訪れたと伝えられている。一説によれば「北斎辰政」の名乗りは妙見菩薩の冠辞「北辰」に肖ったものと言われ、銘「柳嶋妙見堂」という絵を残している事からもその篤信ぶりが窺える。更には、当時の柳嶋妙見堂の賑わいが『江戸名所図会[7] にも取り上げられており、歌川広重歌川芳員も浮世絵に残している。[8] また広重を始め歌川豊国初代市川左團次6代目尾上菊五郎6代目桂文治などが芸道の開運を願って日参したと伝えられ、落語「中村仲蔵(蛇の目傘)」や歌舞伎「於染久松色読販」などでは柳嶋の妙見参りが登場する。
妙見様の御利益

このような盛況に継ぐ盛況の歴史に暗雲が垂れ込めたのが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災第二次世界大戦であった。僅か30年の間に発生した存続の危機は歴代住職による命懸けの護持丹精によって切り抜けたが、戦後の復興期に至っても大きな問題が発生する。昭和40年(1965年)から昭和48年(1973年)に掛けて、東京都は下町地区の大震火災時の避難に関する研究を開始し広域避難場所を続々と選定し始めた。これに伴って木造狭小住宅が密集していた墨田区の業平・押上・文花・立花地区にも“広域避難場所の設定に伴う大規模な立ち退きの可能性”が生じたが、これに反対する地域住民が都と対立。一時は硬直状態に陥り深刻な状況にまで発展した。この時、地元の町内会長を務めていた38世・妙道院日意(鈴木良雄)が状況打開の為に英断を下し、本堂・客殿・庫裡等の主要建築物を取り壊した上で鉄筋コンクリート製の諸堂及びマンション(業平ハイツ)を建築。東京都が理想とする不燃性の高い建物を整え、対象の地域住民の為に広く門戸を開放したと言う。この「幽冥に北斗(北辰)の煌くが如く、達見(妙見)を以って人生の指針を示す」という妙見信仰の真精神は、39世・妙玄院日敬(鈴木良敬)に継承され今日に至っている。
伽藍・境内

本堂

妙見堂 … 開運北辰妙見大菩薩を祀る。妙見の像は長さ一尺許り
[1]

葛飾北斎辰政の碑

近松門左衛門供養碑

文化財

近松門左衛門供養碑(断片)- 墨田区登録有形文化財(歴史資料)、
2009年平成21年)6月22日登録(非公開)。[9]

初代歌川豊国筆塚(断片)- 墨田区登録有形文化財(歴史資料)、2013年平成25年)3月21日登録。[9]

歴代住持

歴代法号
(俗姓・道号)命日(享年[数え年])経歴
開山法性房日?本山 真間山弘法寺7世・聚楽院日與の弟子[1]
2世日議
3世日泰
4世日寶
5世日迢
6世日宗
7世日惠
8世日圓
9世日眞
10世日明
11世日見
12世日理
13世日輝
14世日孝
15世実修院日皎[10]
(寛海)天明7年(1787年)10月31日本山・小西檀林 妙高山正法寺(千葉県大網白里市小西) 134世
平河山法恩寺(東京都墨田区太平) 30世
16世深妙院日報
(文桂)
17世明静院日納
(存海)寛政12年(1800年)2月25日鎮護山善國寺(東京都新宿区神楽坂) 15世
18世玄玄院日?[11]
(赤羽玄静)文政2年(1819年)3月25日(64歳)大本山 正中山法華経寺(千葉県市川市中山) 91世


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