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法制史(ほうせいし)とは、法律の歴史や、歴史上の法律のあり方について研究する学問。法史学(ほうしがく)・国制史(こくせいし)などとも呼ばれる。
歴史学としての側面と法律学としての側面を併せ持っており、歴史学の分野からは法律制度やこれに基づく国家体制の変遷などを明らかにする学問であり、法律学の分野からは法律の発展を歴史学的方法を通じて明らかにする学問である。 法制史と法律学・歴史学との関係については、法制史を法解釈学と結びつけて新たな法理の形成を促そうとする考え方と現行の法社会との直接統合の可能性を否定して法制度に関する歴史学としての立場を追究する動きがあった。だが、法律の法典化・近代化の進行とともに前者の存立余地が減少していったのみならず、法の発展の歴史全体における位置づけが不明確となり、法制史が独立して存在する意義が失われてしまうとの批判がある。一方、後者の立場から法社会学などとともに基礎法学の一角を占めて「近代法とは何か」という基礎認識を導くために法の発展に関係する全ての歴史事象を研究する学問に徹するべきであるとする見解も存在する。
概要
第2次世界大戦後、社会史や経済史の観点から法制史への関心が高まる一方で、従来の国家制度とその法律の歴史研究に限定されてきた法制史研究に批判も登場した。このため、法律そのものの歴史のみならず、それを生み出してきた社会の仕組みや人々の法観念などの研究も行われるようになり、比較対象も中国やヨーロッパのみならず全世界的となった。このため、従来の固定された「法制史」という枠から決別して社会規範全般の歴史を扱う意味での「法史学」や反対に従来の「法制史」の中核であった国家体制・法制の歴史に特化した「国制史」(憲法史・ドイツ語の「Verfassungsgeschichte
」)などの呼び名も用いられるようになった。なお、現在の日本の大学の法制史教育は法学部において主に行われ、法制史を日本法制史・東洋法制史(もしくは中国法制史)・西洋法制史(ローマ法・カノン法・ドイツ法・フランス法・イギリス法など)に分けて講座が編成される事が多い。 日本では明治以前においても明法道・有職故実の研究の一環として律令や格式、官制などの研究が行われる事もあったが、明法道にとっての律令格式や室町幕府の武家故実(御成敗式目などの鎌倉幕府の法令を含む)などは、形式上は現行法であったことに加えて明法家や故実家がこうした知識を家学化してその道の権威として自己の家格を維持するために用いられたために、知識そのものが「秘伝」とされ、あるいは蓄積された知識を用いて自己都合による解釈が行われるなど「学問」からかけ離れた側面も有した。 江戸時代中期以後になると、古辞学 明治維新に伴う西洋の法制及び法律学の移入とともに、近代日本の法制史の始まる事になる。1874年に東京開成学校(後の東京大学)において、イギリス人講師による「羅馬法(ローマ法)」講義が行われ、3年後の1877年に小中村清矩によって「日本古代法律」と呼ばれる日本法制史の講義が行われた。もっとも、当時の太政官制を中心とする政治体制は旧来の律令制と近代国制の混合形態であり、当時の日本法制史も旧来の有職故実の延長であった。この頃から、法制整備を目的に律令法や幕府法の研究が行われ、『憲法志料
歴史
法制史の発生されて復権したことにより、古い法制度を研究して現在の法制度のあり方に反映させる意図で発達した。特に19世紀のドイツでは法典論争の勃発を機にサヴィニーを中心として「歴史学派」が形成されるが、やがてドイツ法の根源をローマ法に求めるサヴィニーを中心とするロマニステンと、ギールケ(en/de)やサヴィニーのかつての弟子であったヤーコプ・グリムらを中心とするゲルマン法に求めるゲルマニステンが対立する法典論争が勃発して、現在の法律及びその根源を求めるための法制史研究が特に盛んになった。結果的にはサヴィニーが起こしたパンデクテン法学に基づいたドイツ民法典が制定(1896年)されて一区切りが付く。だが、ゲルマニステンの活動はローマ法の継受を受けていない社会(例えば日本)においても法制史の形成を促した点は大きい。また、ローマ法の影響を直接的には受けなかったイギリスでも歴史学派が勃興し、イギリスにおけるローマ法史を研究したヘンリー・メイン(en)や法の歴史的類型の研究を行ったヴィノグラドフ(en)を経てメイトランド(en)によってコモン・ローの歴史研究が本格化することとなる。
明法道・有職故実の律令・官制研究
近代日本の法制史学の成立